Wikipedia で「祖母」を検索すれば、「直系2親等にあたる女性や高齢の女性についてはおばあさんを参照」とあり、「おばあさん」の項目へと飛ばされる。この「おばあさん」がまた極めて厄介な一般名詞だ。「おばあさん」には二重の「ジェンダー」が被せられている。「女性」という「ジェンダー」と、「老人」という「ジェンダー」だ。Google 画像検索で「おばあさん」を検索すれば、その二重の「ジェンダー」を被せられた人々の画像が表示される。
「作家の祖母の方が撮られた写真です」。その言葉を聞いて、この Google 画像検索に表示されている様な人がカメラを構えている――どちらかと言えば微笑ましい印象の――姿がすぐにも想像されてしまう。しかし勿論それは「祖母」という言葉の罠だ。その「祖母」は、その写真を撮影した時点では、まだ「祖母」になっていないうら若き20代の女性だったかもしれないのに。しかしそうであっても「作家の祖母の方が撮られた写真です」は誤りではない。「作家のおばあさんの方が撮られた写真です」ですら「正確」な表現である。
来年(2016年)の「春頃」から、「世界最速の芸術鑑賞」を謳う「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が越後湯沢〜新潟間を走るという。営業キロ134.7kmを50分弱で結ぶ区間である。ミニ新幹線規格のE3系という、JR東日本で余りに余った車両の再利用になる。「アートキュレーション」は「SCAI THE BATHHOUSE」及び「TRUE Inc.」、総合プロデュースは「TRANSIT GENERAL OFFICE INC.」という「東京資本」によるものだ。
外国メディアが差し出すマイクに向けて、動画内のロシアのコミューター(乗客?観客?)氏は言う。"I use this line often and it's nice to see these pictures. I hope it makes art more accessible to young people,"(私はこの3号線をちょくちょく使っているけど、この様な絵画を見る事が出来るのはとても良いね。こうしたものがある事で、若い人達がより芸術に親しめる様になれればと思うよ)。
セントポール大聖堂を正面に見る、“overlooking the riverside" が売りの Tate Modern Café は、それ自体が美術館展示とは独立した形で存在するロンドンの人気観光スポットだ。寧ろこのカフェが無ければ、テート・モダンの魅力は半減してしまうかもしれない。それはテート・モダンに限らず、ここ20〜30年に新設・改装された美術館には、魅力的な眺望を持つレストランやカフェが必ずと言って良い程に設けられていて、寧ろ今日的な意味で良い美術館の条件の一つとして「眺めの良いレストラン/カフェ」の設置が上げられそうですらある。
「緑豊かな皇居を望む立地」の L'art et Mikuni(国立東京近代美術館)、「ガラス越しの夜景が幻想的な空間を演出」の BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee(国立新美術館)、「豊かな緑と外光が注ぎ込む心地よい空間」の MUSEUM TERRACE(東京都美術館)、「四季折々の風景を楽しめる最高の空間」の LE JARDIN(世田谷美術館)、「中庭に面したガラス張り」の Cafe d'Art(原美術館)、「都心とは思えない豊かな緑が目に飛び込んできます」の NEZUCAFÉ(根津美術館)、「緑を眺めながらのティータイムをお楽しみください」の カフェテリア TARO(岡本太郎美術館)、「一色海岸を望む絶好の眺望」の ORANGE BLEUE(神奈川県立近代美術館葉山館)、「平家池を見下ろす最高の場所」の PINACOTECA(神奈川県立近代美術館鎌倉館)、「イタリア語の『美しい眺め』という店名どおり、窓からの景色を楽しみながらお食事ができるレストラン」の Belvedere(川村記念美術館)……。首都圏の主要美術館の飲食施設とその売り文句はこうなっている。因みにパリの「ポンピドーセンター」の “Georges" のプレザンタシオンも “surplombant la capitale(首都を見下ろせる)" だ。
些か詭弁めくが(ここまでもずっと詭弁だったが)、その意味で逆説的な形で「所沢市立第2学校給食センター(稼働時)」の2階と “Tate Modern Café" は、「空間的位相」の「場所」として「同じ」である。「特定の場所」はそれ故に個別的に閉じておらず、空間的にも時間的にも常に開かれている。それは延いては同じ位相にある他のあらゆる「特定の場所」とも――それはそれぞれ自分達の家の中に於ける「特定の場所」にも――繋がる。だからこそそれは「普遍」なのである。「普遍」は決して1メートルがどこでも「同じ」という意味ではない。
(注2)その後半でキム氏(김씨)に変わってしまう、大邱百貨店勤務のユン某氏(윤모씨)の東京でのエピソードが紹介されたハングル版記事(김용범 기자 署名記事)の最初の段落は、日本語版では割愛されている。
韓国・慶尚北道の道庁所在地である大邱(대구:テグ)市の現在の公式アルファベット表記は “Daegu" だが、以前は “Taegu" であったという。その登場が東京都のシンボルマークよりも3年1ヶ月早いとする大邱百貨店(대구백화점)のシンボルマーク(1986年5月1日〜)もまた、その頭文字 “T" をデザインソースとし、「両手を上に伸ばした状態で太陽が上る姿を形状化したもので、新しい希望・顔・出発を意味する(두 손을 위로 뻗친 상태에서 태양이 떠오르는 모습을 형상화했으며 새로운 희망ㆍ얼굴ㆍ출발을 의미한다)」という付会が付されている。
(注3)韓国 Wikipedia の「大邱百貨店(대구백화점)」に掲載された同百貨店のシンボルマークとされる画像のファイル名は “Symbol of the prefecture of Tokyo (represents a ginkgo leaf)" となっていて、実際にもそれは大邱百貨店のシンボルマークではない。
中央日報の記事では、今回の一連の「騒動」を考える上でも注目すべき記述がある。それは「하지만 같은 업종에 있는 기업도 아니어서 법적 대응은 고려하지 않고 있다(同じ業種の企業でもないので法的対応は考えていない)」という箇所である。「同じ業種の企業でもない」。「差異」はこうしたレイヤーにも存在する筈だった。
オリンピック憲章の「第5章 オリンピック競技大会(5 The Olympic Games)」を読むと、その「Ⅰ. オリンピック競技大会の開催、組織運営、管理(I. CELEBRATION, ORGANISATION AND ADMINISTRATION
OF THE OLYMPIC GAMES)」の「規則 33 付属細則(Bye-law to Rule 33)」の「1. オリンピック競技大会開催の申請−申請都市(1. Application to host Olympic Games – Applicant Cities:)」の「1.3」 にはこう書かれている。
1.3 Should there be several potential applicant cities in the same country to the same Olympic Games, one city only may apply, as decided by the NOC of the country concerned.
今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の場合、全会場に設置された椅子は、映像の2作品と他に “Freischwimmer" “Sendeschluss" “Weed"(例)が掛けられている部屋にそれぞれ木製の低い長椅子が3つ(以上を以後「A群」とする)、そして件のエスカレーター周辺の椅子(以後「B群」とする)である。
A群とB群の椅子の性格は異なる。それを簡単に言えば、そこに座って正面に見える「ヴォルフガング・ティルマンス」に目を遣る事無く、スマートフォンを取り出して LINE や Twitter や Facebook に興じていても、そこで小説の文庫本を読んでいたり、矢庭に PC を取り出して業務メールを送ったり、世間話や名刺交換をしていたりしても、相対的に咎められなさそうな椅子がB群である一方で、A群の椅子では中々そうは行かないだろう。A群の椅子では、否応無く作品と一対一で向き合わされる。映像作品は言うまでも無いが、例えば “Freischwimmer(フライシュヴィマー:自由な泳ぎ手・自由に生きる人/初めてのスイミング・テスト)" の前の椅子に座る観客の視線は、それ程には “Freischwimmer" たり得ない。
「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の多くの観客は、自らの持つ「さぞかし」という「想定(fore/see=前もって/見る)」が次々と裏切られる事に直面させられる。時に腕を組んだりして「ジッと見よう」と臨んでいた視線が、「ヴォルフガング・ティルマンス」を前にした瞬間に「キョロキョロ見る」に変質させられて行く。元々「おみごと」なものとして作られているものを「ジッと見る」事は容易だ。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」を「ジッと見る」にはどうすれば良いのだろう。答えを見い出せなかった観客は、作品を「ジッと見る」事を諦め、複雑で曖昧な表情と共にその前を立ち去る。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」は、「『さぞかし/おみごと』への裏切り」によってドライブする。「5秒ルール」こそは「ヴォルフガング・ティルマンス」が設定している時間だろう。
“WT" が “my sense of duty is that I want to make new pictures(私にとっての義務感とは、新しい写真を作りたいということにほかなりません)"(ジュリアン・ペイトン=ジョーンズとハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー)と極めて凡庸そうな事を言う時、その「新しい写真」とは何を意味しているのだろうか。それは変化して止まない「写真の生態系」へのアプローチの更新を意味しているのではないか。
But then of course the world into which they insert this image can never totally conform, and is always a bit out of control because of all the different layers that people add to it. In cities things are constantly being layered upon each other in a way that is much more anarchic than what is first imagined by the city planner, or the architect of a building, or the advertising executive. This collage view on cities I find really fascinating because there is no master plan, or people always overwrite the master plan. I like that messiness.
東京都現代美術館で開催されている「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」に行った。大人一人だけで行った。この「夏休みのこどもたちのための展覧会/An Art Exhibition for Children(同展「展覧会概要」)」に、未就学児の自分の子供と一緒に行く事は叶わなかった。但し子供と行ける条件が満たされたとして、果たしてこの展覧会に子供を連れて行くかと問われれば、それは限りなく無いのではないかとしか答えられない。何故ならば2015年の夏に、未就学児が自らの世界との関係構築の為に接しなければならないものが、美術館の外に数限りなく存在するからだ。それは単純に、子供という(取り敢えず)限定された時間的リソースを巡る優先順位の話なのである。
(...) en tout cas d'une manière définitive et impérative à partir de la fin du XVIIe siècle, un changement considérable est intervenu dans l'état de mœurs que je viens d'analyser. On peut le saisir à partir de deux approches distinctes. L'école s'est substituée à l'apprentissage comme moyen d'éducation. ela veut dire que l'enfant a cessé d'être mélangé aux adultes et d'apprendre la vie directement à leur contact. Malgré beaucoup de réticences et de retards, il a été séparé des adultes, et maintenu à l'écart dans une manière de quarantaine, avant d'être lâché dans le monde. Cette quarantaine, c'est l'école, le collège. Commence alors un long processus d'enfermement des enfants (comme des fous, des pauvres et des prostituées) qui ne cessera plus de s'étendre jusqu'à nos jours et qu'on appelle la scolarisation.
Cette mise à part — et à la raison — des enfants doit être interprétée comme l'une des faces de la grande moralisation des hommes par les réformateurs catholiques ou protestants, d'Église, de robe ou d'État. Mais elle n'aurait pas été possible dans les faits sans la complicité sentimentale des familles, et c'est la seconde approche du phénomène que je voudrais souligner. La famille est devenue un lieu d'affection nécessaire entre les époux et entre parents et enfants, ce qu'elle n'était pas auparavant. Cette affection s'exprime surtout par la chance désormais reconnue à l'éducation.
市民の価値観を変える事で「自発的」な形を伴ってその行動様式を変えさせる、即ち被抑圧者をして抑圧者の目的に「自発的服従(subjectivation/assujettissement)」させる「知/権力(savoir/pouvoir)」の諸形式(その最も古典的なものの一つが “panopticon(パノプティコン)" である)を分析したミシェル・フーコーの “Naissance de la prison, Surveiller et punir(監獄の誕生―監視と処罰)" の “discipline(規律=訓練)" という在り方を、公立美術館自身が自らの「教育(=「閉じこめの過程」)」機関としての説明に援用するという事態は、美術館自らがその様な「知/権力」の側に位置しているという、紛れも無い現実に対する誠実な告白と言えるだろう。
La famille et l'école ont ensemble retiré l'enfant de la société des adultes. L'école a enfermé une enfance autrefois libre dans un régime disciplinaire de plus en plus strict, qui aboutit aux XVIIIe et XIXe siècles à la claustration totale de l'internat. La sollicitude de la famille, de l'Église, des moralistes et des administrateurs a privé l'enfant de la liberté dont il jouissait parmi les adultes. [...] Celui-ci a apparu au XVIIIe siècle au moment où la famille achevait de se réorganiser autour de l'enfant, et dressait entre elle et la société le mur de la vie privée.
Ōkina otomodachi (大きなお友達?) is a Japanese phrase that literally means “a big friend” or “an adult friend”. Japanese otaku use it to describe themselves as adult fans of an anime, a manga, or a TV show that is originally aimed at children. Note that a parent who watches such a show with his or her children is not considered as an ōkina otomodachi. An ōkina otomodachi is not a parent who buys anime DVDs for his or her children to watch. Ōkina otomodachi are those who buy children’s anime for themselves. Also, if the work is obviously aimed at adults, a fan of it is not an ōkina otomodachi. Hence ōkina otomodachi and otaku are different concepts.
大きなお友達(Ōkina otomodachi)は、字義的に言えば「大柄な友人(a big friend)」や「大人の友人(an adult friend)」を意味する日本語に於ける言い回しである。日本のオタクが、幼児向けのアニメ、マンガ、テレビ番組の大人のファンとしての自分達の存在を言い表す場合にこの言葉が用いられる。但し注意すべきは、自分の子供と共に、それを親として試聴する場合には、大きなお友達にはならないという事である。大きなお友達は――親としてではなく――幼児が視る為に作られたアニメの DVD を、自分自身の為に購入する人々である。また、仮にその作品が大人をターゲットとしているのであれば、そのファンは、大きなお友達ではない。従って、大きなお友達とオタクは、異なる概念である。
子供は質問する。それは子供自身が、自分が「知らない者」である事を知っているからだ。一方で、大人は子供程には他者に対して質問をしない。「美術館」で「作品って何?」と問う大人はそれ程多くない。大人は「作品」とされるものに対して、自らを「知らない者」とは認めない。「子供向け」の表現や、「美術館」に展示するに相応しいものがどの様なものかを知っていると思って自身を疑わない=「知らない事を知らない」のが大人である。しかし「知らない事を知らない」者に対しての「対話」は困難なものになるだろう。何故ならば「対話」は「私が知る全ては私が何も知らない事である(“All I know is that I know nothing.”:ソクラテス)」と自らを認ずる事の出来る者同士で行われるものだからだ。従って規律=訓練の「学校」と、懐疑の方法論である「対話」もまた反りが悪いのである。