すくなくともいまは、目の前の街が利用するためにある

【枕】

「枕」は仮定の話になる。

或る古書店で古い洋書を買ったとする。その本がどういう経緯でこの店先に流れ着いたのかは判らない。そのページを捲って行くと、二葉の写真プリントが挟まれていた。

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裏書めいたものは無い。一体何時頃の写真だろうか。少なくともカラーフィルムが発明されてからのものである事は確かだ。ここは何処なのだろう。撮影者は何処の誰だろう。そして何を思ってこのショットを撮ったのだろうか。

【枕】終わり。

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東京・恵比寿の waitingroom で、「すくなくともいまは、目の前の街が利用するためにある」展を見た。

同展プレスリリース(PDF)
http://www.waitingroom.jp/japanese/exhibitions/2015/doubles_vol1/07122015_waitingroom_doublesPR.pdf

奥の部屋の一面の壁全面に大きく「引き伸ばされて」いる写真があった。広大な牧草地。十数頭の牛。所謂「引き」で撮られた画面内にある何れのものに対しても、特段に関心の中心化を図っていない様に見えるこの写真の撮影は、この展覧会に「アーティスト」としてクレジットされている人によるものなのだろうか。

それにしては、余りにも「訴え掛けよう」とする姿勢の見えない写真だ。何らかの形での「訴え掛け」がその「存立」の根本にある「アーティスト」の写真には、多かれ少なかれそうしたものが――判り易い/判り難いを問わず――含まれているものではあるだろう。しかしこの写真は「訴え掛け」の在処を示そうとするものでも、また「訴え掛け」の不在を示そうとするものでも無さそうだ。言わばこの写真は、そもそも「『写真』にする」意志というものが欠けている様に見える。

極めて安手のテレビドラマに、ハンカチに染ませた「クロロフォルム」を嗅がされて誘拐されるという定形があるが、この大きく引き伸ばされた牧場の写真は、その失神状態から冷め、後ろ手に縛り上げられ監禁されている誘拐アジトの窓から見た風景の様にも思える。のんびりした牛の声が不安をいや増しにする。そこが何処であるかの情報に乏しい風景。ここは一体何処だろう。人の話し声もしない。何処の国かも判らない。

やれやれこれはまたまた極めて難儀な「写真」だなと展覧会場で途方に暮れていたところ、親切なギャラリーの方が、わざわざこちらに寄って来られて、この撮影者が誰であるかを明かしてくれた。それは作家の御祖母であられるという。それを聞いた事で「途方に暮れた」は終わり、それに代わる形で「より途方に暮れた」が始まった。「武田雄介」という「アーティスト」による「写真」ではなく、その「祖母」による写真。困惑をより深める為の親切。

「祖母」という一般名詞の持つ罠。「祖母」とは、基準となる者から直系2親等の「上流」に位置する「女性」を意味している。その基準を満たしていれば誰でも「祖母」になる。同じ長谷川町子キャラの「磯野フネ(サザエさん)」と「伊知割石(いじわるばあさん)」は――それぞれ「フグ田タラオ」「伊知割マコト/伊知割サナエ/伊知割ツトム」にとって――「祖母」である。「右寄り」の政党に投票し続ける「祖母」もいれば、「左寄り」の政党に投票し続ける「祖母」もいる。一日の多くの時間をオカンアートの制作に費やす「祖母」もいれば、Adobe Lightroom を立ち上げつつ次の個展のプランを構想している「祖母」もいる事だろう。

Wikipedia「祖母」を検索すれば、「直系2親等にあたる女性や高齢の女性についてはおばあさんを参照」とあり、「おばあさん」の項目へと飛ばされる。この「おばあさん」がまた極めて厄介な一般名詞だ。「おばあさん」には二重の「ジェンダー」が被せられている。「女性」という「ジェンダー」と、「老人」という「ジェンダー」だ。Google 画像検索で「おばあさん」を検索すれば、その二重の「ジェンダー」を被せられた人々の画像が表示される。

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「作家の祖母の方が撮られた写真です」。その言葉を聞いて、この Google 画像検索に表示されている様な人がカメラを構えている――どちらかと言えば微笑ましい印象の――姿がすぐにも想像されてしまう。しかし勿論それは「祖母」という言葉の罠だ。その「祖母」は、その写真を撮影した時点では、まだ「祖母」になっていないうら若き20代の女性だったかもしれないのに。しかしそうであっても「作家の祖母の方が撮られた写真です」は誤りではない。「作家のおばあさんの方が撮られた写真です」ですら「正確」な表現である。

勿論根掘り葉掘り問えば、その「祖母」がどの様な人であり、またその写真の撮影時期や撮影場所、撮影意図すら知る事が出来たかもしれない。しかしこの写真は「『祖母』の方が撮られた写真です」のままにしておくのが良い様な気がする。

極めてつまらない話にはなるが、「現代美術/現代アート」の世界には「拾ったもの」を作品に使用する系譜というものがある。「流木」アートや「廃品」アート的な作品を作る人は、何処の町にも必ず一人はいるだろう。「コラージュ」に使用される「コレ」された数々の「パピエ」は或る種の「拾ったもの」になるだろうし、少々の無理を承知で言えば「レディメイド」もまた「拾ったもの」の系譜にあると言える。そうした「拾ったもの」系譜の作品に対して、「近代的な主体概念を超克する」的な解釈――表現者本人によるもの含む――が常に被せられ(て解釈の消費をされ)るというのもまた、「現代美術/現代アート」の世界では極めて良く見掛ける、永遠に続くかと思われる日常風景である。

この「武田雄介」という人の、これまでの「インスタレーション」を見ての印象もまた、何処かで「拾ったもの」感のするものだった(その全てが買い求められ、或いはそれを構成するものの幾つかが「作られている」ものであったとしても)。その「インスタレーション」と呼ばれ得る何かを前にした観客は、何処かしら「途方に暮れる」感に向き合わされたものだ。それは「拾ったもの」――例えば「コーヒー缶」や「古タイヤ」や「手放された玩具」等――を使い、誰もが見知っている「ティラノサウルス」のイメージに「昇華」させて行く様な類の「アート」では無い。寧ろそれは、誰かがコーヒー缶を蹴り続けた挙句に道路端の凹みに嵌ってしまい、そのままで放置されている様な――しかし「道路端の凹みに嵌ってしまった」といった「事件」の起こり様を読み取る事が可能である様な――ものだ。

ここにあるのは、撮影者の情報が欠落している「拾った写真」として現れている。牧場の写真の向かって右隣の人物を撮った写真は、その相対的な「高精細」から判断して(その判断は間違っているかもしれない)字義通りの「拾った写真」ではなさそうだが、しかしそこには「私はここを拾った」的な切り取りがされている。そこを「アーティスト」が「拾った」理由は判らない。単純に元写真の天地のそれぞれ「中央」部分というのはあるかもしれない。その一方で、その「拾った」部分を「中央」にする為に、「全体」の写真の構図が決定されているという捻転が存在している様にも思える。

しかしそれもこれも判らないままにして、「より途方に暮れる」という状態に置かれ続けているのが良いのだろう。

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未だ京都の冬が残っていた2015年3月の話。「京都芸術センター」2階の “Speaking in Tongues(Aernout Mik)" を見た後に、「PARASOPHIA特別連携プログラム」の「鳥の歌」展を見るという事にした。

アーノウト・ミックを見終わり、階下に降りるとそこには校庭の向う側にある展示を最初に見て欲しいという内容の掲示がされていた。数十メートル離れた校庭越しの展示室(以後「第一室」とする)と思しき部屋の扉には、何らかの文章が書かれた紙が貼ってあるのが見えた。しかしそこに何が書かれてあるのかはこの距離では明らかではない。展示の指示通りにそこまで歩いて近付いて行くと、その紙に書かれた文言の内容が明らかになった。機器故障の為にこの部屋の展示は取り止めになったという意味の事が書かれている。最初に見て欲しいというものを省いて次のもの(「第二室」)を見る訳にも行くまい。その日は「鳥の歌」を見る事を止めた。

次に京都芸術センターの「鳥の歌」に行ったのは2週間後位だろうか。2週間というのは「機器」のテクニカルなそれなりの安定性が確保され、ベータ公開状態が解消されるだろうマージンを勘案してのものだ。果たして何事も無かったの如く「第一室」のそれは動いていた。

聞き様によっては他愛の無い話が、3面のスクリーンから交互に流れて来る。3つの「他愛の無い話」。この手の話は何処かで聞いた記憶がある。ああそうか、自分の母親が話していた、父親との馴れ初めの話だ。見合いの場で二人きりになり、それから見合い会場を出て近所の公園か何かを歩き、そこのベンチを若い女性(やがて自分の「母」になる)に譲る際に見せた若い男性(やがて自分の「父」になる)の些細な――しかし間が抜けている――行動に、「この人は良い人だ」と確信したといった様な話だった。

その話は自分の中では一回しか聞いた記憶が無いものの、しかし今でも鮮明に覚えている。その時、目の前の人は「母」である事から離れていた。同時にその話の中に登場する若い男の人(やがて自分の「父」になる)もまた。その目の前の「母」を着た「娘」の話す「他愛の無い話」はまた、「歴史」的には「第五福竜丸」と同じ頃の話でもある。しかしそれも「『時代』としては」なのではある。

確かに京都の「鳥の歌」では、三つの「他愛の無い話」があってこその「第二室」の「資料」だった。その「資料」の中には、相対的に若い男女が寄り添う写真もあった。「他愛の無い話」と「時代」。或いは「時代」と「他愛の無い話」。それは「時代」の中にある「他愛の無い話」なのだろうか。それともそうした「時代」に、完全には添い寝する事の無い(或いは「添い寝」を何処かで拒否する)「他愛の無い話」なのだろうか。

今回の waitingroom の展示では、京都の「第一室」に於ける様な「他愛の無さ」は後景に下がっていた。京都の「第二室」から派生しただろうこの展示は、そうした「他愛の無さ」に覆い被さっていた「時代」を、相対的に前景にする。

日本統治時代」の地図がそこにあった。巡り巡って、今は台湾人の「ノスタルジー」の対象でもあるらしいその地図の山間部を見て、ああここに隣室の写真の牧場があるのかもしれないと妄想した。

そして、何処とも判らない牧場(もしかしたら「台湾」かもしれない)に於ける「他愛の無い話」に思いを馳せた。「第一室」の「おばあさん」達が、まだ「娘」だった頃に話されていた様な。

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本の中に挟まれた「写真」は、或る女性によって1930年代の末頃に撮られた写真である事までは判った。その時、その女性は「他愛の無さ」からそれを撮影しただろう。そしてその数年後に彼女は「妻」になり、その直後に「自殺」するのである。

「鳥肌実」

ここ数年はテレビのアンテナをすっかり折っている。最後に長時間テレビ番組を見たのは、アナログ停波から数年前の2007年頃だ。従って、それ以降のテレビの「有名人」は、自分にとっては「無名人」である。

商店の店頭等でしばしば見掛ける、揃いの格好をして笑顔を振り撒いているお嬢さん達は、巷間「有名人」とされているらしいのだが、それが何という名前の人なのかは知らない。プロ野球全球団の監督の名前を答えよと問われても「知るかそんなもん」である。

世間で言うところの「ジジイ」の平均年齢には達していないと思うものの(まだ「優先席」を譲られた経験は無い)、年端の行かない幼児から「バカ!」とか「ウンコ!」とか「ジジイ!」とかの捨て台詞を投げ掛けられる程度にはすっかり「ジジイ」である。

従ってなのかどうなのかは判らないが、所謂「サブカルチャー」の流行に対する感受性/嗜好性は、未だ「ジジイ」の「ジ」ですら無かった頃(約40年前とする)に比べれば、アンテナの感度は随分と低くなっていると自覚はしているし、また今は敢えてかなり低めのチューン値にしているという事もある。

大体「ジジイ」はそういうものを期待されていない存在ではあるだろう。「ジジイ」が持てる資産に飽かせて観光バスをチャーターして大挙押し寄せ、ガレキを買いまくって「荒らし」て行くワンフェスというのは、少なくとも現時点では悪夢に見えるに違いない。

これが恥ずべき事なのかどうかは判らないが、この9月12日まで「鳥肌実」という名前の人物が存在している事を知らなかった。理由は流行に対するアンテナの感度が低い「ジジイ」だからだ。それが物議を醸す可能性を持つ名前である事も知らなかった。理由は以下同文だからだ。

鳥肌実」って誰だ。

そう思っていたら、すぐさま「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」が YouTube にアップされている事を知らせる公開ツイートが、リンク付きで「ジジイ」の TL の最上部に現れた。それを9月12日の午前中にリツィート経由で見た自分は、今まで知りもしなかった「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」に、いとも簡単に無料で触れる事が出来たのである。

自分はもうすっかり頑固な「ジジイ」であるから、誰でも容易にアクセス可能な「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」を見て、その「主張」にハートを鷲掴みにされる事は無かった。前後を切られた件の無料動画で判断する限りは、「面白い『芸』」にも見えなかった。しかしその一方で、この Twitter の公開ツイート上で剥き出しにされた無料公開の「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」のリンクを踏むのは、それが Twitter である限り頑固な「ジジイ」ばかりではないだろうなとも思った。それ以降も、この「ヘイトスピーチ」動画へのリンクは、相変わらず間欠的に Twitter 上で剥き出し状態にされている。

9月12日中に(「芸人」としての「賞味期限」を十数年前に過ぎたとも一部にされている)「鳥肌実」氏という存在を何となく把握した気に取り敢えずなり(「正確」なものであるかどうかは判らない)、それから「鳥肌実」氏全般に関する俄勉強を経て(過去には東北芸術大学にも武蔵野美術大学にも多摩美術大学にも日本大学芸術学部にも京都嵯峨芸術大学にも呼ばれていた事を知った)達した印象は、「『パレ・ド・キョート』に於ける(現在の)『鳥肌実』」というのは「『旭山動物園』に於ける(現在の)『鳥肌実』」を目指しているのではないかというものだった。即ち「『(現在の)鳥肌実』の行動展示」である。

「現在の『鳥肌実』」氏が「野獣」であると仮定した上で言うならば、その「野獣」を「博物学」的な「行動展示」の対象として見るというのには様々な条件が必要にはなる。その最も重要な条件は「野獣」を「動物園」内に確実に留めておく事になるが、その条件は取り敢えずは満たされていた様な気がする。少なくとも「野獣」状態にある「鳥肌実」を伴った「散会」等が市中で「ライブ」で行われたりしない限りは。

他の条件としては観客の「姿勢」が挙げられるが、この条件は結構ハードルが高い。即ち飽くまでもそれを「研究対象」として見る事を、3,500円也を払う事でそれを見る権利を獲得した「パレ・ド・キョート」の観客は期待されている。

ARTZONE" は、京都では「知る人ぞ知る」空間ではあるが、同時に「知らない人には全く知られていない」空間でもあり、単純な数字上の比率から言えば後者のウェイトが圧倒的である。東京で言えば、そこは(その経営母体を問わなければ)「NADiff a/p/a/r/t」みたいなものだろうか。

そんな場所にわざわざ出掛けようというのは、大抵は「その筋」(所謂「アート」系)の人であり、また「その筋」の人というのは、その多くは信条的には「リベラル」寄り(或いはどっぷり)の人達であるという勝手な思い込みがある。

飽くまでも印象ではあるが、多くの「その筋」の方々は、Twitter で「桜」方面の人達をフォロー(決して皆無とは言わない)していないだろうし、或いは死んでもフォローするものかと思われている方々も多かろうとは思う。「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」(「芸」であるか否かは問わない)程度で、その信条が簡単に揺らいでしまうという方は、そもそも “ARTZONE" という場所には縁が無いのではないかと思えたりもする一方で、しかしそれもまた蓋然性の内にはある事は否定出来ない。自らを智者であると任じている人間が、往々にして煽動に対して脆弱であるという例を幾らでも見て来ている人生だ。

仮に「鳥肌実」氏が「研究対象」になり得たとしても、それでも「鳥肌実」自体が諸所に現れる事自体を許し難いとする方が、3,500円也の観客の中におられる可能性を全くのゼロであるとする見方があるとすれば、それはそれで「誤っている」認識と言えるだろう。

兎にも角にも、「パレ・ド・キョート」の場から「鳥肌実」の名前は削除された。削除されるに至った具体的な経緯は必ずしも明らかではないし、「パレ・ド・キョート」に於ける「鳥肌実」氏の具体的な「行動」がどの様なものになるかも結局判らなかったが、いずれにしてもその削除に「鳥肌実の存在が悪」と考える正義感が果たした役割は大きい。そしてここから先の正義感の行く先としては、拡散されまくっている「閲覧注意」の動画の削除をこそ YouTube に働き掛け続けて行く事になるのだろう。

 

資料「鳥肌実の『パレ・ド・キョート』出演を巡るツイート」
http://togetter.com/li/890169

窓と壁

【前説 1/3】

悲しくも人類にしか出来ない暴力の形。

Sirens of the lambs : Banksy

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 【前説 2/3】

 “Güterwagen" =「貨物のワゴン」。このドイツ語は、日本語では通常「貨車」と訳される。

ポーランド南部の小さな村ブジェンジンカ(Brzezinka)村境沿いのユデンランペ(Judenrampe)に、数十年インストールされているこの年代物の “Güterwagen" は二軸車である。スポーク車輪の軸受の上には、相対的に簡便廉価なサスペンション・システムであるリーフスプリングが渡されている。決して乗り心地が最上であるとは言えない。しかし「客車」ではない「貨車」であるから、この「貨車」を走らせていた者にとってそれは問題とはならなかったのだろう。

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これと似た型式の「貨車」の内部はこうなっている。「貨物(Güter)」が「窓」を必要とする事は「無い」。この羽目板二枚分の開口部は「窓」ではなく、最低限の「換気」の為のものだ。この開口部に有刺鉄線を巡らせたケースもある。開口部から「貨物」が車外に「飛び出して」しまう事を防ぐ為にだ。 

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他の型式のものには「貨物」への監視塔が備えられているものもある。

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ブジェンジンカ村の「貨車」は、上掲ストリートビュー左手のポイントで左側の支線に入り、170R 前後の左カーブを100度強曲がり、この村で唯一の直線道路、ウリツァ・オフィアル・ファシズム(Ulica Ofiar Faszyzmu)とゲートを潜って、操車場を備えた施設に到着する。直近のオシフィエンチム(Oświęcim)駅で「仕分け」され、窓の無い「貨車」の中で生き残った者は、そこから再び窓が殆ど無いか、或いはそれが全く無い「働けば自由になれる(Arbeit macht frei)」が掲げられた建物へと収められて行く。

「窓」を奪って「貨物」にするという、悲しくも人類にしか出来ない暴力の形。そこからそれは始まっている。

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【前説 3/3】

嘗て東京の恩賜上野動物園に「ブルブル」という雄ゴリラがいた。1957年(園長:古賀忠道=初代)に同園に推定4歳でカメルーンから「来園」し、同園の「ズーストック計画」事業の一環である「ゴリラ・トラの住む森」エリアが東園にオープンした翌年の1997年(園長:斉藤勝=10代)に、その生涯を閉じた(推定44歳)ウェスタンローランドゴリラ(西ローランドゴリラ)である。

日本の動物園史に於いて、第二次世界大戦敗戦直後の国民的動物園アイドル――占領下の日本国有鉄道が特別仕立ての象列車を走らせた――が、名古屋・東山動物園に生き残っていたアジアゾウの「マカニー」と「エルド」(1937年に同園が木下サーカスから購入した4頭=「アドン」「エルド」「マカニー」「キーコ」の内の2頭。「アドン」と「キーコ」は栄養失調等による衰弱死)やインドのネール首相(当時)から贈られた上野動物園の「インディラ」であるとすれば、1955年の「事故」による名古屋の2頭の象の表舞台からの退場後は、東京の「ブルブル」もその役の一端を担っていた。

ゴリラは非常にセンシティブな動物の一つである。「ブルブル」は、1970年前後に一時期自傷行動に陥っていた。自らの体毛を毟り取ってしまうのだ。食餌を含めたゴリラの飼育ノウハウが日本の動物園でまだ確立されていなかった試行錯誤の時代。「ブルブル」と一緒に暮らしていた雌ゴリラが「リウマチ」と見立てられた症状に罹ってしまう。その治療の為に雌ゴリラが隔離状態に入った為に、その「別離」のストレスから「ブルブル」の自傷行動は始まったとされている。

1971年、「ブルブル」のストレスを低減させようと、飼育関係者がバックヤードの彼の「寝室」に設えたのが、当時一般家庭の普及率が20%前後だったカラーテレビ(19インチ:大卒初任給の5ヶ月分前後の値段)だった。彼に与えられた番組は「野生の王国」(古賀忠通氏監修:主題歌は昭和40年代の日本を象徴する音でもある「シンガーズ・スリー」)や「野生の驚異」、後にプロ野球、プロレス、キックボクシング、ハクション大魔王いなかっぺ大将帰ってきたウルトラマン、ドラマ等といったものであった。

果たして「ブルブル」は「テレビ漬け」のゴリラになって行く。「野生の王国」や「野生の驚異」以外の番組には全く興味を示さなかったというが、それら「野生もの」(テレビサイズの判り易い物語を作る為の脚色/編集あり)の「ドキュメンタリー」は、 9時30分〜17時、及び定休日(月曜)といった、開園時間――それは来園者からの好奇混じりの「監視」の視線を浴び続ける時間(「休憩」無し)である――外という「オフ」の時間を、そこでしか過ごせない「窓」の無い「寝室」に於ける「窓」の代替物であった。21世紀の今ならば、「畜舎」に Wi-Fi を引き、ゴリラに iPad やニンテンドーが渡されていたかもしれない。

f:id:murrari:20110402010206j:plain電波によって運ばれたものの表示に依存する「ブルブル」。野生の何百万倍もの量の人間の視線を集める「博物学」の対象にされて生き続けるという、悲しくも人類にしか出来ない暴力の形からそれは始まっている。

 【前説終わり】

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走る美術館「現美新幹線」

 

 JR東日本では、世界最速の芸術鑑賞「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の運転を2016年春頃に、上越新幹線「越後湯沢〜新潟間」で予定しています。

 

本列車では、
注目のアーティストがこの場所のために制作した現代アート、地元の素材にこだわったスイーツやコーヒーを提供するカフェ、沿線に広がる車窓など、様々な魅力をご用意しております。

 

新幹線で移動しながら現代アートを鑑賞するというユニークな演出をぜひ体験してみてください。

 

http://www.jreast.co.jp/genbi/

 来年(2016年)の「春頃」から、「世界最速の芸術鑑賞」を謳う「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が越後湯沢〜新潟間を走るという。営業キロ134.7kmを50分弱で結ぶ区間である。ミニ新幹線規格のE3系という、JR東日本で余りに余った車両の再利用になる。「アートキュレーション」は「SCAI THE BATHHOUSE」及び「TRUE Inc.」、総合プロデュースは「TRANSIT GENERAL OFFICE INC.」という「東京資本」によるものだ。

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「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の編成図はこうなっている。

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JRは「下り」線の行き先方向から1号車が始まる決まりになっている。従って東京(「上り」方面)を背にした新潟(「下り」方面)に近い方から、11号車の「松本尚」氏、12号車の「小牟田悠介」氏、13号車の「paramodel」(キッズスペース)と「古武家賢太郎」氏(カフェ)、14号車の「石川直樹」氏、15号車の「荒神明香」氏、16号車の「ブライアン・アルフレッド」氏という6両編成(2M4T)になっている。

11号車の「松本尚」車は、通常のE3系を相対的に小改造のまま使用する様だ。12号車の「小牟田悠介」車、14号車〜16号車の「石川直樹」車、「荒神明香」車、「ブライアン・アルフレッド」車は、下り進行方向右側の窓を塞ぐ改造がされて「壁」になっている。上掲動画の車窓風景は、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」で見る事は可能にも思える(素通しガラスの場合)が、その反対方向の車窓風景はデッキに立たない限り見る事が出来ない。

一方13号車の「paramodel・古武家賢太郎」車では、それらの車両の窓とは反対側が開けられているものの、そこは「paramodel」による「キッズスペース」部分に限られていて、車両の残り半分の「古武家賢太郎」氏のエリアである「カフェ」は、その座席周囲以外は全くの窓無しである。

この図面(恐らく実際の設計と大きな変更点は無い)から読み取れるのは、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」を利用する乗客に、なるべく「車窓」から見える外の世界を見させない様にする工夫がされているという事である。11号車の「松本尚」車に、どの様に「アート」作品がインストールされるのかは判らないが、他の(「paramodel」エリアに集まる事を許された「キッズ」以外を除く)車両では、乗客が「車窓」を背にする座席配置になっている。それは鉄道車両に設えられた「壁」に掛かる「芸術」の「鑑賞」に極めて適した座席配置であり、且つ「壁」に掛かる「芸術」の「鑑賞」以外には全く適さない座席配置である。

これは例えば、米アムトラックスーパーライナー・ラウンジ車の、室内に背を向けて「車窓」から見える外の世界を見るのに最適化された外向きの座席配置とは全く正反対のものだ。

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果たして「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の窓は通常車両の様に素通しだろうか、或いは採光の為にのみ存在するスモークの入ったものになるのだろうか。同じE3系の改造車で、同じ6量編成(S51編成)のE926形「新幹線電気・軌道総合試験車(East i)」――所謂「ドクターイエロー」。車体色は黄色ではない――は、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」より窓数が多い。測定機器を積載する車両であるのに。

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いざこの「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が現実化した際には、そうしたものは排除されてしまうのかもしれないが、しかしこの「現在検討中のイメージイラスト」に描かれている「パース」図の、「壁」部分下部のグレーに塗られた「腰板」の存在こそが、この高速鉄道車両に「現代アート」を持ち込もうとする欲望の形とその限界を、極めて良く表しているとも言えるだろう。その意味で、この些かも「現代アート」的ではない「腰板」こそは、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」から決して外してはならないものの様な気がする。

仮にそれが、「腰板」を外された全くの「ホワイトキューブ」になったとしても――それが多少見難くなるだけで全く同じであるとは思うが――「現代アート」→「現代アートであるからこそ壁の存在は必要条件である」→「E3系に遮光性の高い壁を設ける改造を施す」という判断の流れは、恐らく動かし難く既定のものだったと想像される。結果的に「現代アート」→「現代アートであるからこそ壁の存在は必要条件ではない」とはならなかったのである。

しかし窓無しの車両は、外からは「貨車」の様にも見えてしまう。そこで蜷川実花氏による晴れやかな花火でラッピン(wrap in=覆い隠す)する事が必要とされたのだろう。確かにそれで「世界最速」の「貨車」のイメージは払拭されるかに思える。但し所謂「ラッピング」を施された貨物列車(先頭機関車のみ)というのは過去に存在している。

この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」に於いて「壁」が「現代アート」の必要条件の一つであるとすれば、他には何が必要だろうか。「監視員」というのはどうだろう。この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」にインストールされた作品が、同時に動産的な価値を有するものであるとして、その場合「作品に手を触れないで下さい」と書かれていても、動産的価値を毀損する=手を触れてしまいそうになる様な観客/乗客に対して彼らが必要であるとすれば、やはり各車両にそれは配されるべきであろうか。或いは、監視カメラで観客/乗客を集中管理すべきであろうか。その場合、センサー仕掛けのアラームが車内に鳴り響いたり、回転灯が回ったりするというアイディアも有りかもしれない。そうした一連の「監視」には、鉄道警察官を割り当てるべきか。しかし現実的にはセンサー入り防弾ガラスの向こう側に作品を置くのが最もコスト安になるだろう。勿論一切を監視しないままに任せ、通勤電車の車内広告に対するのと同じ様なセキュリティ・レベルにしておくというのも、それはそれで「現代アート」ではある。

「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が走れば、全ての「展示」を見たくなるというのが、この列車をわざわざ選ぶ人間の人情というものだろう。多くの観客/乗客が、この50分弱の間に目の前の1メートル前後(恐らく90センチ〜120センチ程度)の幅の通路を11号車から16号車までの「展示」を移動して見て回るのである。「通路」に対して向けられたシートに座る自分の直前を、次から次へと他車両の観客/乗客がやって来る。大きな作品に対しては、引いて見たくもなるというのも人情だから、その場合は「ソファー」に座る自分の膝先に他の観客/乗客が迫って来る事にもなるだろう。「ガイドツアー」すらあるかもしれない。この通路は通勤電車のそれ以上に「往来」なのである。

「芸術」の「鑑賞」の場は眠りこける場ではない。そもそも「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」のシートは、「ソファー」をイメージしている為に――近距離通勤電車のシートと同じ長手方向に並ぶ――リクライニングしない。この観客/乗客が行き交う落ち着かない場所で、しかもテーブルの無い状態で弁当を食べる訳にもいかなかろう。但しロングシートの通勤電車でそれを食べる事の出来る人間は別だ。

(たったの)50分間を「芸術」の「鑑賞」に浸ってもらうという名目で、敢えて Wi-Fi もコンセントも付けないという事はあるだろうか。確かに「美術館」や「ギャラリー」の展示室内では充電は不可能ではあるし、そこでスマートフォンタブレット端末を取り出すのは美的に躊躇わさせられる。況してやここでラップトップコンピュータ(この席では文字通り膝上に載せての使用になる)を取り出して見積書を作るなど以ての外とされるだろう。

試しに “train lounge" で画像検索を掛けてみると、世界各国の鉄道ラウンジ車両内に於ける「ソファー」の使用例がヒットする。

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これらの多くで重要視されているのは、互いの「顔」を向き合わせた「会話」だ。互いの視線の正面には相手の「顔」があり、その背後にパノラミックな「窓」がある。「順番」としてはそうだ。

何よりもこれらは番号を振られた座席ではない。基本的にラウンジ車両の「ソファー」はチケット販売時に割り当てられた座席ではなく――それらの席は別に存在する――「空き」を見つけて座る椅子だ。

「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の「ソファー」は指定席なのだろうか。その場合、どの席が人気が高いだろう。

f:id:murrari:20151022222959p:plain従来通りのシート配列の11号車の各席は指定席かもしれない。一方、12号車〜16号車の「ソファー」はどうだろう。それは「空き」を見つけて座る席なのだろうか。即ち乗車チケットは潜在的な「立席」である自由席の形で販売され、観客/乗客は椅子取りゲームの様に「空き」を争奪するといった様な。であれば「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」のシートは通勤電車のそれと同じものになる。

それは “Fine art" が壁に掛かっている列車だったこのモスクワの通勤メトロと、構造的には全く同じだ。

外国メディアが差し出すマイクに向けて、動画内のロシアのコミューター(乗客?観客?)氏は言う。"I use this line often and it's nice to see these pictures. I hope it makes art more accessible to young people,"(私はこの3号線をちょくちょく使っているけど、この様な絵画を見る事が出来るのはとても良いね。こうしたものがある事で、若い人達がより芸術に親しめる様になれればと思うよ)。

今から半年後の「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が開通した初日、これとそっくりな「感想」が日本のテレビでオンエアされるのは確実だろう。仮に実際にそれが出て来なくても、テレビ局の編集室や新聞社のPC上で、その様に「要約」すれば良い。そしてその「乗客の声」を以って、報道は「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の「予定稿」通りの「成功」を伝える事になる。

動画の車内の乗客の様子が極めて興味深い一方で、動画の最後のホームのカメラから見た「芸術を見る人達」のバックショットも、中々に良い味を出していると言える。そして「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」は、その外側を覆うラッピングも含めて殆どこのメトロと同じものになる(コンテンツだけ異なる)のである。

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それにしても、何故に「アート」は人々の「正面」に「壁」として立ちはだかり、その視線を我がものにしようとするのか。「背後」であり続ける「アート」というのは無いのだろうか。

引込線2015

台風の影響による大雨の日に「引込線2015」の会場に行った。


車を「旧所沢市立第2学校給食センター」奥の駐車スペースに止めると、フェンスを隔てた畑ではこの雨にも拘らず、農機で土を掘り起こし始めているところだった。ファンタズムに陥り易い自分は、駐車スペースからその農機を操っている人の位置へと飛び、自分もまた畑仕事をし始めていた。ほんの少しだけ手を休め、ふと顔を上げると暇そうな男が車の脇に立ってこちらを見ている。嫌な視線だ。それを一瞥し再び農作業に戻る。同時に暇そうな男の元に魂が帰って来た。雨は降り続く。


給食配送車の荷台高さから決定されているヤード/フロアの高さまでコンクリート階段で上る。それは嘗てここで働いていた人達も、その一日の仕事の始まりに登る階段だったのだろう。その受付で記帳して「展覧会を見に来た人」になる。展覧会に於ける記帳というのは、それ自体が通過儀礼だ。


1階のトイレの周囲の展示物から見始めて、そのまま1階の展示物をぐるりと回り、それから2階に向かう。階段の壁に掛かっている作品を首を不自然に曲げて見ながら階段を登り切ると、果たして2階の廊下で行われる筈のパフォーマンスは行われていなかった。「パフォーマー」はこの日はここに来ないらしい。廊下の壁際には「物」が置かれていた。



2階の部屋毎の展示物を、街中の所謂「ギャラリー」で行われている展覧会程度に時間を掛けて見る。1階に設置されているものを含め、この「旧所沢市立第2学校給食センター」にある作品の幾つかは、再度何処かの「ギャラリー」や「美術館」で見られるかもしれないという印象を持った。参加作家の中には既にそのスケジュールを「ToDo」項目に入れている者もいるかもしれない。


それらを見終わった後、「展覧会を見に来た人」という衣装を脱ぎ捨て、「パフォーマー」不在の2階の廊下の窓から階下をぼうっと眺めていた。ピントを外した目で見るここからの眺めは悪く無い。呆けていたその時間は、映像作品を除く全ての作品の前に立っていた時間よりも遥かに長いものだった。たった今、下の階で「展覧会を見に来た人」のマナーを守って凝視して来た「作品」の数々が、その前に立って見ていたのとは全く異なる「風景」として見えている。



末永史尚氏の手によるもの、白川昌生氏の手によるもの、多田佳那子氏の手によるもの、五月女哲平氏の手によるもの、保坂毅氏の手によるもの、中山正樹氏の手によるもの…。それらが互いのテリトリーを侵さずに、それぞれの棲息の場に収まっている。互いに互いを食い合う事も、互いが互いを飲み込む事も無い、不活性で平和な環境。2階の廊下窓から見えたのは「深海」だった。


現実の深海魚が、高水圧で低水温、その個体維持の為に得られるエネルギー源は浅海で生じたものの僅かな沈降物(余剰としてのマリンスノー)という、「極限」極まり無い様にしか思えない環境――人間の尺度からすれば「何でわざわざこんな環境に棲むのだろうか」という思いを払拭出来ない――に棲むに至った理由は、深海魚でない身にとっては判らないし、当の深海魚に聞いてみたところでやはり答えは得られないだろう。


それでも敢えて当の魚を代弁しようとする人間による「説」はあるもので、その最も伝統的なものは、生存競争の激しい浅海に居場所を確保出来ずにドロップアウトした魚種が、極めて消極的ではあっても「安定」的な環境とも言える深海に落ち着ける様に撤退的な形で進化したというものである。人間界に於いてはこの「説」はどうやら「時代遅れ」らしいのだが、しかしそれが「誤り」なのかどうかは、当の魚ならぬ、況してや神ならぬ人間なので判らない。


現実の深海魚に対して「ここは快適な場所ですか?」というインタビューを試みたとして、底生性の現生魚類なら「ここしか知らない」に通じる様な、また深海から中層まで(浅海に深海魚が行くには、自身深海の環境に適応し過ぎた為に、そこに行く事自体が不可能だ)を行ったり来たりの遊泳性の魚類なら「悪くないっすよ」に通じる様な答えが帰ってくるかもしれない。


では、この「旧所沢市立第2学校給食センター」という「深海」に集まっている者のそれぞれは、「ここは快適な場所ですか?」という質問にはどう答えるだろう。ここは彼等にとって「約束の地」なのだろうか、それとも何かの「帰結の地」なのだろうか。美しい魂がここに彼等を集らせたのだろうか、それとも何らかの事情がそうさせたのだろうか。そもそもこの場所は、彼等に受け入れられているのだろうか。いずれにしても、彼等がここで生まれた者ではない事は確かだ。


正直なところを言えば、こうした場所に於ける「発表」行為を「挑戦」の形で評価したくはない。仮に「挑戦」をこそ真っ先に評価されたい「発表」行為があるとしたら、それに対しては何も言う事は無い。そうした「挑戦」は、どう転んでも「発表」と「場所」の関係の凡庸な「感想」、翻って「発表」と「場所」それぞれの凡庸な「観念」をしか導き出せない気がする。


雨の音しか聞こえない「海底」の、嘗ては人が過ごす事の無かった暗鬱な一角(ここが稼働していた頃は、そこには処理された「死体」があったと想像される)から、遠い声で繰り返される映像を伴わない「これはわたしのちではありません」が、「これはわたしの地ではありません」に聞こえて来た。それは時々「これはわたしたちの地ではありません」になり、「これはあなたの地ではありません」になる。やがてその声から「整形」された「表面」が剥がれて行き、「これはわたしの地ではありません」は「切実」なものの様にも感じられる「声音」になって行った。


ほんの一瞬「これはわたしの地ではありません」や「これはわたしたちの地ではありません」が、あの「難民」の人達の口から出ているという妄想が頭を過ぎった。同時に「これはあなたの地ではありません」が「難民」の人達が向かう先の人達の口から出てきている妄想も。「難民」の人達が「落ち着く」先々で、実際これからこの様な会話の「レッスン」が行われて行く事だろう。


「これはわたしの地ではありません」は、元々は「これはわたしの血ではありません」だった。考えてもみれば、このセンテンスを発しなければならないシチュエーションというのは、警察の取り調べや刑事事件の裁判位しか思い付かない。知らない言葉が飛び交う取調室や法廷で、「これはわたしの血ではありません」をその言葉で言わねばならなくなる事。それもまた「レッスン」だ。そして妄想は消えた。


改めて「海底」を見る。ここにいるのは「逃げて来た人」なのだろうか。それとも「拓きに来た人」なのだろうか。質問の核心は恐らくそこだ。そして非情にも、質問の相手は孤独な魚ではなく社会性を営む人間なので、その質問はその人達に向けられると同時に、それを見る人達(畑を耕す人含む)にも向けられる。「あの人達どう見える?」。

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一旦「海底」に背を向け、再び2階の「展示室」に入る。それらの部屋には「外部」に向けた窓がある。


機能する事を止めてしまったこの建物の2階の窓から見えるのは、左から所沢市役所 障害者福祉施設かしの木学園、所沢市立松原学園、三菱食品・キャリテック中富集配センター、所沢市民武道館、埼玉西協同病院、まばらに建つ住宅、所沢聖地霊園の敷地を囲う樹々といったところだ。家々を囲む防風林が常緑樹や竹ではなく欅であるところからして、紛れも無く関西とは全く異なる関東平野の郊外の典型的な風景である。その時、隣地の畑の土の掘り起こしは半分以上終わっていた。それらをテート・モダンのカフェから臨むテムズ川越しのシティ・オブ・ロンドンを見る様に暫く眺めていた。



セントポール大聖堂を正面に見る、“overlooking the riverside" が売りの Tate Modern Café は、それ自体が美術館展示とは独立した形で存在するロンドンの人気観光スポットだ。寧ろこのカフェが無ければ、テート・モダンの魅力は半減してしまうかもしれない。それはテート・モダンに限らず、ここ20〜30年に新設・改装された美術館には、魅力的な眺望を持つレストランやカフェが必ずと言って良い程に設けられていて、寧ろ今日的な意味で良い美術館の条件の一つとして「眺めの良いレストラン/カフェ」の設置が上げられそうですらある。


「緑豊かな皇居を望む立地」の L'art et Mikuni(国立東京近代美術館)、「ガラス越しの夜景が幻想的な空間を演出」の BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee(国立新美術館)、「豊かな緑と外光が注ぎ込む心地よい空間」の MUSEUM TERRACE(東京都美術館)、「四季折々の風景を楽しめる最高の空間」の LE JARDIN(世田谷美術館)、「中庭に面したガラス張り」の Cafe d'Art(原美術館)、「都心とは思えない豊かな緑が目に飛び込んできます」の NEZUCAFÉ(根津美術館)、「緑を眺めながらのティータイムをお楽しみください」の カフェテリア TARO(岡本太郎美術館)、「一色海岸を望む絶好の眺望」の ORANGE BLEUE(神奈川県立近代美術館葉山館)、「平家池を見下ろす最高の場所」の PINACOTECA(神奈川県立近代美術館鎌倉館)、「イタリア語の『美しい眺め』という店名どおり、窓からの景色を楽しみながらお食事ができるレストラン」の Belvedere(川村記念美術館)……。首都圏の主要美術館の飲食施設とその売り文句はこうなっている。因みにパリの「ポンピドーセンター」の “Georges" のプレザンタシオンも “surplombant la capitale(首都を見下ろせる)" だ。


原美術館の Cafe d'Art の説明文にはこうも書かれている。「アートで心が満たされたら、カフェ ダールでゆったりとしたひとときをどうぞ」。これは「アート」と「カフェ」に於ける質的な「相乗効果」を意味するものであろうか。しかし仮に「心が満たされた」と「ゆったりとした」が、量的な多寡の関係にあるものとしたらどうだろう。即ち「心が満たされた」という「お腹一杯、もう入りません」的なインプットの飽和(注)状態を、「ゆったり」という飽和に達しない状態――新たなインプットの場所を確保する為の――に「戻す」場所が、美術館に併設されている「眺めの良いレストラン/カフェ」の「ガストロ(胃袋)」的な「消化」機能であるとしたら。


(注1)ほうわ【飽和】(名)スル ① 最大限度まで満たすこと。また,最大限度まで満たされていること。「大都市の人口は―状態に達している」 ② ある条件下で,一定量に達すると外部から増大させる要因が働いても,それ以上には増えない状態。(スーパー大辞林


たった今見て来た展覧会を、購入したばかりのカタログを手に反芻する施設が美術館内に必要であるとしても、それは四方を壁に囲まれた穴蔵バーの様な場所――方丈なホワイトキューブでも良い――でも良いのである。恐らくその方が「アートで心が満たされた」パンパンの状態をそのままの形でキープし易いだろう。何故ならば釈迦の悟りを邪魔するマーラ(注2)の如くに魅力的に迫って来る――取り敢えず「アート」とは直接の関係が無い――「眺望」に気を取られなくて済む(現実的に言って「感動」の半分以上は「眺めの良いレストラン/カフェ」の「眺望」に持って行かれるだろう)からだ。であるにも拘らず「眺めの良いレストラン/カフェ」が、今般の美術館にとって必須条件の様にされるのは何故か。


(注2)尤も「アート」が「マーラ」の側にあり、「眺望」が「悟り」の側にあるとする事も出来る。

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例えば所沢市の「学校給食の調理員」の仕事があったとして、それが契約社員(月給17万5000円)の場合は、勤務時間が朝の7時から夕方16時までの実働8時間、パート採用(時給830円)の場合は、朝の9時から15時までの実働5.5時間であったとしよう(以上、給与や労働時間等の数字は例)。


午前6時台に外階段を上がってタイムカードを押し、朝の7時からその日の献立の仕込みに入る。11時前後の各学校への配送作業が終わると数十分の昼休み――食事はその日の献立が支給されるので、近隣の日高屋松屋マクドナルドに行く必要は無い――になり、以後はその日の片付け作業や食器の洗浄、翌日の献立の仕込みの時間となり、午後の何処かで10分程度の休憩を挟んだ後に終業となる(以上、作業内容やタイムテーブルは例)。


稼働していた頃の「所沢市立第2学校給食センター」で働く人に自らを同一化してみれば判る事だが、この建物の1階部分と2階部分は、全く性格の異なる空間である。それを極々簡単に書けば、1階は「労働」の空間で、2階は(一時的にではあっても)「労働」から開放される空間という事になる。


所沢市立第2学校給食センター」の1階にも窓は存在するが、それは採光目的以外のものでは無く、従って「所沢市立第2学校給食センター」の仕事に従事する者が、この建物の1階では「労働」で「心を満たされた」状態をキープさせられる――「労働」以外に目を向けさせない――様に設計されているのである。それは近代以降の生産現場に共通する特長だ。


一方「休憩」や「昼休み」の時間には、2階の部屋で――「休憩」や「昼休み」に1階に留まり続けるのは、衛生面からも推奨されないだろう――過ごす事になる。そこにある窓は、1階の採光目的の窓とは大きく性格を異にする。それは――飽くまでもその窓の持つ意味の方向性としては――美術館に於ける「眺めの良いレストラン/カフェ」の窓と「同じ」ものである。「労働時間」内に「労働」で「心を満たされた」飽和状態にあるここで働く労働者に、「四季折々」の畑や欅等といった「外部」に建物を開く事で(極めて相対的ではあるが)「ゆったりとしたひととき」を過ごさせる様に設計されているのだ。


こうした「職場」内に於ける空間特性の「メリハリ」というものは、「作品の制作(work)」とは別レイヤーにある、現金収入を得る為の「労働(labor)」で禄を食まなければ生存出来ないほぼ全ての現代美術アーティストが、常日頃から親しんでいるものであろう。


仮にその「労働」の場所が、例えば例年の「引込線」展にも大いに関係の深い「武蔵野美術大学」の「鷹の台キャンパス」であったとして、同キャンパスの「鷹の台ホール」A棟2階の「食堂」、「12号館」地下1階の「食堂」、同館の「談話室MAU」、「4号館」1階の「エミュウ」前の「カフェテラス」等は、「授業」や「制作」の場からは「質」的に切り離されている場所である。


そこもまた「所沢市立第2学校給食センター」の2階フロア同様、「労働」で「心を満たされた」飽和状態にある「美術大学」の賃労働者に(も)、「ゆったりとしたひととき」を過ごさせる空間なのであり、一つの「サイト」に於いて特性的な「メリハリ」を付ける事は、これもまた近代以降の生産環境に於ける「職場」空間の設計上の必須要件である。

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所謂「サイトスペシフィック・アート」の「サイト」は何を意味するのだろうか。例えば「引込線2015」の会場の「場所」は、――「学習」すれば判る様に――確かに「給食センター」の「跡地」ではある。もう少し深く「学習」すれば、当地の郷土史を紐解いて得たもの――例えば「織物の町」であったり「基地の町」であったり――を「サイトスペシフィック・アート」の縁とするかもしれない。一方で現在のそこは「所沢市」の「中富」――決して「日吉町」ではない――であり、その中でも前述した窓から見えるものや、団地や大型ショッピングセンターや老人保健施設や斎場や大型霊園や浄水場等に周囲を囲まれた場所でもある。


しかし何よりもこの「所沢市立第2学校給食センター」と名指された一つの「場所」には、前述した様に特性的に無視し得ない振幅が存在する。「美術館の展示室」と「美術館のレストラン」が、同じ「美術館」の建物の中にあるにも拘らず全く異なる特性の空間である様に、「『労働』する身体」として自らを内面的に律しなければならない1階と、「『労働』する身体」を1レベル分だけ脱ぐ(但し「拘束」はされる)事を許す空間である2階が、同じ「所沢市立第2学校給食センター」という一つの建物に同居している。「労働」を軸にするだけでも、これだけの特性の幅があるのだ。そして現実的には、一つの「場所」は、常に様々なレベルの特性の差異が層になった形で束ねられている複雑性を有している。センサー感度をマックスにして見て行けば、この「所沢市立第2学校給食センター」にも多数の空間特性を読む事が出来るだろう。


その意味で、それぞれの特性を持つ空間に於けるそれぞれの1メートルは異なるものなのである。「造形」の目からすれば、それらは全く同じに見えるかもしれないが、ここで働いていた人が「給食」労働に向き合わされ立たせられていた2平米の床と、「給食」労働を一時忘れ寝転がれていたりもしただろう2平米の床は全く異なるものだ。そうした空間的特性の差異にこそ「サイト」の本質は宿り、であればこそそれは一般的に「場所」とされている空間的な局所性に「サイト」は縛られるものではない。


些か詭弁めくが(ここまでもずっと詭弁だったが)、その意味で逆説的な形で「所沢市立第2学校給食センター(稼働時)」の2階と “Tate Modern Café" は、「空間的位相」の「場所」として「同じ」である。「特定の場所」はそれ故に個別的に閉じておらず、空間的にも時間的にも常に開かれている。それは延いては同じ位相にある他のあらゆる「特定の場所」とも――それはそれぞれ自分達の家の中に於ける「特定の場所」にも――繋がる。だからこそそれは「普遍」なのである。「普遍」は決して1メートルがどこでも「同じ」という意味ではない。


美術館に「眺めの良いレストラン/カフェ」がある事で、美術館もまた様々な空間特性が束ねられている複雑性を有する様になった。それは生活の全体系から導き出されたのかもしれない。その全体系の中で「アート」はどの様に「ある」べきか。或いはどの様に「ある」ものが「アート」と呼ばれるものか。それは物理的に「アート」が「ある」事とは必ずしも一致しないのである。


美術館の「展示室」とは空間的特性が異なる美術館の「眺めの良いレストラン/カフェ」に、「リクリット・ティラヴァーニャ」や「ユナイテッド・ブラザーズ」等の「料理」が入り込む余地は無い。それらは「展示室」の中で「『アート』から降りる」的な振る舞いを見せる馴れ合いの演技をしてさえいれば良いのだ。「眺めの良いレストラン/カフェ」の様に、それらの「料理」が数十年間毎日の様に黙々と供され続けるという事は無い。それは「展示室」から始まる「事件」を「成立」させようとする意志に基づくものであり、「事件」の「成立」を「展示室」の関係者が確認したと同時に終わってしまう「展示室の料理」だからだ。


美術館の「眺めの良いレストラン/カフェ」は、美術館の中にあっても「アート」とは確実に一線を画した上で、料理以外の何物でもないものを料理以外の何物でもないものとして供し続けるというのが、その最大の存在理由なのである。その窓から見えるもの――「生活」や「天体」等――が「アート」と直接的には無関係である様に。ここに「展示室」から越境して「アート」が入って来る事は、広義の「アート」の為にもレストラン/カフェの全力を上げて阻止すべき事なのだ。そうでないと、狭義の「アート」によって、生活全体のエクスペリエンスは確実に痩せ細ったものに変えられてしまうだろう。

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2度目に「引込線2015」に行った時は花曇りだった。畑には誰もいなかったが、畝は出来ていた。今回の訪問は見逃していた2階廊下の「パフォーマンス」を見る事が目的だった。


痩身の60歳のおじさんが、廊下に置かれていたステンレス製の物を集め、その内「ランプシェード」とおじさんが呼ぶ、収得によって彼の手になった物がその顔に被せられた。それからステンレス製の調理器具をそこにSカンで吊るして行く。その姿はまるでミツバチで顔面に髭を作って行く養蜂家の様である。それらを吊るす間、おじさんは喋りっ放しだ。その内容は他愛も無いと言えば他愛無い。


それからその蜂髭おじさんならぬステンレス髭おじさんは、その視界をステンレスで極端に狭められた目で歩き始め、テレビ回転台の上に立つ。そしてテレビ回転台に関するやはり雑談めいた他愛の無い話をしながら、手を広げて自らの体を腰や膝を使って回転させる。そして一回転すると「はいこんな感じです」といった感じの、何とも締まらない締めの言葉で「行為のような演技をすることに間違いないだろう」を「終了」させる。


その後は他愛の無いエピソードが雑談的に語られる。「パフォーマンス」で使用していたステンレスのおたまが、家の台所から無断拝借した物である事。家人がそのおたまが台所から消えた事でちょっとした騒ぎになった事。その無断拝借が、Facebook か何かに誰かがアップロードした映像によって、家人にバレてしまった事。仕方が無いので本日限りを以って、このおたまはこの会場から姿を消さざるを得なくなった事。それが笑いを取ろうとする様な語り口ではなく、淡々とした報告の形でおじさんの口から発せられている。それは「美術」の「パフォーマンス」と言うよりは、何処か「テーブルマジック」の様なものの様に思えた。


雑談も尽きてダラダラとした形で「行為のような演技をすることに間違いないだろう」は今度こそ「終了」し、おじさんはその舞台道具を片付ける。再びそれらは廊下の壁際に置かれるものの、その置き方に審美性が関係している訳では全く無さそうだ。それは単に剥き出しの「収納」場所であり、何処までもが「必要」でしかないインストールなのである。おじさんに聞くと、本来は廊下の奥のシャワールームにそれらを「隠す」形で「収納」していたが、それを一々奥から出すのが面倒臭いので、この廊下に置くようになったとの事であった。


他の殆どのオブジェクティブな作品は、その置かれ方に多かれ少なかれ審美性が関わっている。まるでここで審美性を発揮しなければ、彼等の「アーティスト」としてのアイデンティティは崩壊し、生きてはいられない様な強迫性すら見えて来る。その中にあって、この廊下の壁際に集められているものだけは別だ(注3)。「必要」だけがそこにあるのである。


(注3)但し他の「参加作家」が「必要」で作り上げた「収納」としては、「プラットフォーム(配送車に積み込む給食の搬出口)」及び利部志穂氏の「離れ」を「作品」の展示空間とする為に移動したこの「遺構」の備品(スタイロ板や車椅子等)がそれに当たる。


その「必要」は、この「所沢市立第2学校給食センター」の数々の備品にも、その「必要」に於いて唯一呼応している様に思えた。「必要」によって運ばれ、「必要」によってインストールされた回転鍋や食器洗浄機や収納庫や数々のパイピング類。本来的な「サイト・スペシフィック」というのは、こうした肩の力(強迫観念)が抜けたところで実現されるものかもしれない。

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身も蓋も無く言えば、参加者の「やる気」に殆どを依存した展覧会である以上、次回の「引込線」展があるのかどうかは判らない。あったとしてもこの会場が使われるのかどうかも判らない。


その上で言うならば、仮想的な次回展のこの会場の2階は「美術」とは全く関係の無い「ラウンジ」としても良いのではないか(Wi-Fi ゲートは欲しい)と思った。その上で飲食が供されるのであれば(実際には難しいだろうが)、それは「アート」とは一線を画したものであるべきであろう。そこに無理矢理「アート」を入れ込む必要は無いし、そこに「アート」を入れ込まないメリットをこそ採るべきかもしれない。


そこで他愛の無い「テーブルマジック」等が行われるのも、会話によって「疑似恋愛」が成立してしまうのも悪くはない話ではないか。

エンバレイン(中に入れる)


世界は、2020 年に東京で
ひとつの TEAM になる歓びを体験する。
すべての人がお互いを認め合うことで
ひとつになれることの
その大きな意味を知ることになる。

その和の力の象徴として、このエンブレムは生まれました。

すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを。
すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を。
そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動。

オリンピックとパラリンピックのエンブレムは、
同じ理念で構成されています。

オリンピックエンブレムは、
TOKYO、TEAM、TOMORROW の T をイメージし、
パラリンピックエンブレムは、
普遍的な平等の記号 = をイメージしたデザインとなっています。

2020 年はもうそこに来ています。
このエンブレムのもとに
ひとつになって
すばらしいオリンピック・パラリンピック
つくりましょう。


次に世に出る2020年東京オリンピックのエンブレムがどういうものになるのかは勿論知る由も無いが、しかし「著作権」自体に対する自らの立ち位置が、必ずしも明確とは言い難い(自身にその網が掛けられそうになる時には大いに反発する一方で、他人に対してはその網を率先して掛けて回る)少なかなぬ人々を含む「世論」の「勝利」によって撤回される事になったあのエンブレムと、同じ「問題」を再び抱え持ってしまう可能性はある。


ここで「問題」としているのは、多くの目がそこに注がれ、議論のリソースが多く割かれた「パクリ」といった様な事とは全く関係無い。件のアートディレクター氏のエンブレムが、最終的に全くの「潔白」であった事が証明されたとしても、それでもそれは依然として「問題」なのである。


その「デザイン」が「独創」であろうが「剽窃」であろうが、「優れて」いようが「劣って」いようが、「デザイン」に対する判断が「専門」によるものであろうが「門外」によるものであろうが、そのレベルとは全く異なる「問題」があのエンブレムには存在していた。それを煎じ詰めて言えば「リエージュ劇場」のロゴと「同じ」になってしまったという事である。しかし再度言うが、その「同じ」は、互いの形象が相似しているといった様な、ネットやメディアで指摘され続けた意味では全く無い。

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リエージュ劇場」のロゴは “Theatre de Liege" の “T" と “L" の「モノグラム」である。一方、件のエンブレムは “Tokyo" の “T" を表していた。理由は “Tokyo Olympic" だったからである。東京五輪大会組織委員会によるエンブレム発表時のステートメントに記されていた、このエンブレムが “T" である理由=「TOKYO、TEAM、TOMORROW の T 」の “TOKYO" 以下の “TEAM" と “TOMORROW" が、後付の付会であると思わない者は、余程に可憐な感性を持つ人間以外は殆どいないだろう。


改めて言うまでも無く、件のエンブレムは、まずは何よりも “Tokyo" の “T" を表していた。一方の「リエージュ劇場」は “Theatre de Liege" “T" と “L" を表していた。それが「同じ」という事なのであり、だからこそその「同じ」に大いなる「問題」があるのである。

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東京市成立100周年の1989年6月1日に制定され、26年後の現在も使用されている “Tokyo" の “T" を表すシンボルマークがある。



底辺部は、点Cを通り、直線ABに平行な直線とする。
〔シンボルマークの意味するもの〕
東京のアルファベットの頭文字「T」を中央に秘め、三つの同じ円弧で構成したものであり、色彩は鮮やかな緑色を基本とする。
これからの東京都の躍動・繁栄・潤い・安らぎを表現したものである。


http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10100071.html
(東京都例規 第1遍 総規・第1章 総則・第1節 通則「東京都のシンボルマーク」:平成01年06月01日 告示第577号)


一般に「イチョウマーク」とも呼ばれているこのシンボルマークは、嘗ての東京都清掃車や現在の都道ガードレールにあしらわれている「イチョウマーク」と混同されていたりもするが、しかし実際にはそれらは同じものではなく、後者のデザインソースは「都の木」である「イチョウ(注1)」であり、前者「東京都シンボルマーク」はアルファベットの “T" である。東京都の例規的には、その指定色は「鮮やかな緑色を基本とする」というざっくりしたものになっている。因みに東京都のサイトに掲載されているシンボルマークの色は、「C48 M0 Y38 K42(マンセル近似値例:10.0GY 5.3/10.6)」というものであった。その “T" に「これからの東京都の躍動・繁栄・潤い・安らぎ」という付会が添えられている。


(注1)「イチョウ」は「神奈川県の木」や「大阪府の木」でもある。


2007年11月16日、韓国・中央日報紙は、「日 도쿄, 대구백화점 심벌마크 베꼈다?(日本の東京都が、大邱百貨店のシンボルマークを盗用か?)」と報道した。


인구 1300만의 거대도시 도쿄도(東京都)의 심벌마크와 대구를 대표하는 중견 유통업체인 대구백화점의 CI(Corporate Identity)가 형태는 물론 색깔까지도 구분이 어려울 정도로 비슷하다.


人口1300万人の巨大都市・東京都のシンボルマークと大邱(テグ)を代表する中堅流通業者・大邱百貨店のCI(Corporate Identity)は、形はもちろん色までも区別が難しいほど似ている。


한글元記事: http://article.joins.com/news/article/article.asp?Total_ID=2949438
同日本語版: http://japanese.joins.com/article/913/92913.html?sectcode=&servcode= (注2)


(注2)その後半でキム氏(김씨)に変わってしまう、大邱百貨店勤務のユン某氏(윤모씨)の東京でのエピソードが紹介されたハングル版記事(김용범 기자 署名記事)の最初の段落は、日本語版では割愛されている。


韓国・慶尚北道道庁所在地である大邱(대구:テグ)市の現在の公式アルファベット表記は “Daegu" だが、以前は “Taegu" であったという。その登場が東京都のシンボルマークよりも3年1ヶ月早いとする大邱百貨店(대구백화점)のシンボルマーク(1986年5月1日〜)もまた、その頭文字 “T" をデザインソースとし、「両手を上に伸ばした状態で太陽が上る姿を形状化したもので、新しい希望・顔・出発を意味する(두 손을 위로 뻗친 상태에서 태양이 떠오르는 모습을 형상화했으며 새로운 희망ㆍ얼굴ㆍ출발을 의미한다)」という付会が付されている。



両者のシンボルマークの形象が「似ている」というのは紛れも無く事実だろう。大邱百貨店のシンボルマークの指定色は「C81 + M4 + Y78(マンセル近似値例:10.0GY 8.0/16.7)」となっているが、これは東京都の例規にある「鮮やかな緑」に(彩度の高さが「鮮やか」であるとすれば、大邱百貨店のそれは東京都のものよりも「鮮やか」である)合致する為に「同じ」だ。そして何よりも、両者がそれぞれの頭文字である “T" をメインのデザインソースとする点で「同じ」である。


東京都のシンボルマークには、大邱百貨店には無い、下半分を構成する1/4円弧を描き出す中心位置の「ずれ」(円の直径の左右それぞれ1.5/100)がある。「これからの東京都」に対する「これまでの東京都」を表現する箇所が、極めて短くもありながら「線(円の直径の3/100長の直線)」になっている東京都のシンボルマークに対し、一方の大邱百貨店のものはそこが「点(ゼロ)」であるところに両者の大きな/小さな「差異」がある(注3)。


(注3)韓国 Wikipedia の「大邱百貨店(대구백화점)」に掲載された同百貨店のシンボルマークとされる画像のファイル名は “Symbol of the prefecture of Tokyo (represents a ginkgo leaf)" となっていて、実際にもそれは大邱百貨店のシンボルマークではない。


中央日報の記事では、今回の一連の「騒動」を考える上でも注目すべき記述がある。それは「하지만 같은 업종에 있는 기업도 아니어서 법적 대응은 고려하지 않고 있다(同じ業種の企業でもないので法的対応は考えていない)」という箇所である。「同じ業種の企業でもない」。「差異」はこうしたレイヤーにも存在する筈だった。

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最初に件のエンブレムが登場した時、何故にそれはよりによって “T" なのだろうと思った。歴代近代オリンピック(夏季/冬季)のエンブレムデザインはこうなっている。



1896年の「アテネオリンピック」から始まり、2018年の「平昌オリンピック」までのものがここにある。この平昌の後に2020年の「東京オリンピック」が来る予定になっている――開催1年前の1939年に中止になった1940年「東京オリンピック」、及び同年「札幌オリンピック」の様にならなければ、そこに5年後の「東京オリンピック」のエンブレムが入る事になる。


このリストの一番最後に件の “T" のエンブレムを入れてみる。するとたちまちその特殊性に気付く事だろう。仮に開催都市の頭文字をタイポデザイン化したエンブレムが全ての大会のものであったならば、そのクロノロジーの骨格はこうなる。



しかし実際にはそうしたデザインは例外的である。アルファベットを使用したその唯一の例外(注4)は、ケベック解放戦線(FLQ)による「オクトーバー・クライシス」から6年後の1976年に、カナダ・ケベック州の最大の都市で開催された、「モンレアル(モントリオール)オリンピック」だった。アフリカ22ヶ国と中国が参加をボイコットした大会である。


(注4)1980年の「レークプラシッドオリンピック」のエンブレムは、“Lake Placid" の “L" を表していると見る事も可能だが、取り敢えずそれは明言されていないという事で割愛している。


ケベック州公用語はフランス語だ。そしてその開会宣言は「カナダ女王」でもあるエリザベス2世だった。ユニオンジャックを排除した “Maple Leaf" のカナダ国旗が制定されてから11年後のオリンピックのエンブレムは、“Montréal(仏語表記)/Montreal(英語表記) " 共通の頭文字である “M" がデザインソースだ。この “M" はそうしたヒリヒリとした状況の、極めて政治的な判断に基づく「落とし所」の一つなのである。


来る2018年の「平昌オリンピック」のエンブレムもまた、開催地名がデザインソースである。但しそれはアルファベットではなくハングルのそれであり、平昌(평창=ピョンチャン・PyeongChang)の「평」の子音を表す「ㅍ」(アルファベットの “p" に相当)と、「창」の子音を表す「ㅊ」(アルファベットの “ch" に相当)をそれぞれ抜き出してデザインされている。さしずめ東京オリンピックのエンブレムに「欧米文化」の “T" ではなく「と」や「ト」を使用する様なものであろうか。「漢字」の「東」だと「漢人」90数%で人種構成される国のものにも見えてしまうだろうし、何よりもそれはこうなってしまう事が見えている。



紋章ノ意義
本紋章ノ表現スル意義ハ「日本東京」ニシテ、意匠ハ日輪ヲ中心トシテ光芒六方ニ放射ス、即チ六合ニ光被スル


http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10100051.html
(東京都例規 第1遍 総規・第1章 総則・第1節 通則「東京都紋章制定ニ関スル件」:昭和18年11月08日 次長通牒官文発第574号)


いずれにしても「欧米文化」のアルファベットを使用しないというのは、それはそれで一つの見識であると言えるだろう。


平昌と同様に、開催地名の表記文字をデザインソースとしながら、アルファベットを使用しなかった大会に、2008年の「北京オリンピック」がある。そのエンブレムは「舞い踊る北京(舞动的北京)」であり、漢字の「北京」の「京」が踊っている形を、「中国」文化の「印章」の形で表したものだった。


20世紀末までの「インターナショナル」に対する認識からすれば――今回の東京の “T" の様に――「北京オリンピック」は “Beijing" の “B" 、「平昌オリンピック」は “PyeongChang" の “P" をエンブレムに使用したかもしれない。しかし21世紀の彼等はそれをしなかった。21世紀の非欧米語圏に於けるオリンピックは、アルファベットの「文化」を「ローカル」化する事を図るのである。

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オリンピック憲章の「第5章 オリンピック競技大会(5 The Olympic Games)」を読むと、その「Ⅰ. オリンピック競技大会の開催、組織運営、管理(I. CELEBRATION, ORGANISATION AND ADMINISTRATION
OF THE OLYMPIC GAMES)」の「規則 33 付属細則(Bye-law to Rule 33)」の「1. オリンピック競技大会開催の申請−申請都市(1. Application to host Olympic Games – Applicant Cities:)」の「1.3」 にはこう書かれている。


1.3 Should there be several potential applicant cities in the same country to the same Olympic Games, one city only may apply, as decided by the NOC of the country concerned.


1.3 同じオリンピック競技大会の開催を目指す都市が1つの国に複数ある場合は、 その国の NOC が決定する 1 都市のみが立候補申請できる。


東京(2020年夏季オリンピック開催)と、広島(2020年夏季オリンピック国内候補)と、長崎(2020年夏季オリンピック国内候補/広島との共催を断念)が、同じ年のオリンピックに同時に立候補する事は出来ないという事である。一国に一都市。立候補以降は招致で国を割るべからず。であれば、国内調整以降の2020年第32回オリンピック競技大会(「東京オリンピック」)"は、事実上「日本オリンピック」という事にもなる。「札幌オリンピック」や 「長野オリンピック」が、事実上「日本オリンピック」であった様に。


であれば、“T" ではなく “Japan" の “J" を使用するという手も無いではない。佐野研二郎氏が作成した “J" をサルベージすれば、それはこういうエンブレムにもなるだろう。



(C) Kenjiro Sano


形の収まりが余り良くない様にも思えるし、亀倉雄策氏の「DNA」が大分薄まってしまってもいるが、しかしそれは仕方が無い。出来上がりの経緯が、ピンで立つ “T" とは全く異なるものだからだ。“TOKYO 2020" の下に入るべきマークは、大人の事情で割愛している。


1964年の「東京オリンピック」(亀倉雄策氏デザイン)、そして1972年の「札幌オリンピック」(永井一正氏デザイン)は、それらが「日本オリンピック」である事を(“J" ではなく)「日の丸」で表現していた。


オリンピックというのは国際的な行事であるが、開催地は日本である。東京である。そこでこのシンボルを作る思想として、日本を強く印象づけること。(中略)。私は少しも迷わず日の丸を選んだ。日の丸の赤が日本だと思ったからである。


亀倉雄策「曲線と直線の宇宙」


「開催地は日本である。東京である」という亀倉雄策氏(1924年、9歳の時に生誕地である新潟県西蒲原郡吉田町から東京府北多摩郡武蔵村境に「上京」)の同心円的な畳み掛け。それは正に、「本紋章ノ表現スル意義ハ『日本東京』ニシテ、意匠ハ日輪ヲ中心トシテ光芒六方ニ放射ス、即チ六合ニ光被スル」という「東京都紋章」の思想を受け継いでいるとも言える。この畳み掛けのズームインは、「東京」にしっかりと据え付けられている/「東京」から離れる事の無いズームレンズによるものだ。

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「国旗」や「国章」をデザインソースとする、即ち「国家」をイメージさせる大会エンブレムも、開催地の頭文字同様に少数派だ。日本はそれを過去2回(1964年東京と1972年札幌)行っている。他には西側諸国が参加ボイコットした「モスクワオリンピック」の次の大会である、東側諸国が参加ボイコットした1984年の「ロスアンゼルスオリンピック」のデザインソースが星条旗だが(1932年の「ロスアンゼルスオリンピック」も星条旗がモチーフ)、それ以外には見当たらない。1936年の「ベルリンオリンピック」のアドラー(黒鷲)は、ナチスドイツの国章とは直接の関係は無いだろうが、その「歴史」的な「正当」性をアピールするのには多少なりとも寄与した事だろう。


戦後初の夏季大会である「ロンドンオリンピック」のエンブレムは「ビッグベン」だった。以後「ヘルシンキオリンピック」の「ヘルシンキ・オリンピックスタジアム」、「メルボルンオリンピック」の「オーストラリア地図(メルボルンの位置に刺さるトーチ)」、「ローマオリンピック」の「狼の乳を吸うロムルスとレムスの像」と来て、「東京オリンピック」の「国旗」が登場する。それ以降「メキシコオリンピック」「ミュンヘンオリンピック」は開催地を全く感じさせないものになり、再び「札幌オリンピック」で「国旗」の登場。それから「モンレアルオリンピック」の「頭文字」と「ロスアンゼルスオリンピック」の「国旗」を例外として、夏季冬季共に再び開催地の特性を感じさせない「ユニバーサル」なデザインが続く。そして “T" エンブレムによる開催都市の「頭文字」とそこに隠された「国旗」の復活があった。


ここで上掲亀倉雄策氏の言葉の一部を変えてみる。


オリンピックというのは国際的な行事であるが、開催地はアメリカである。ロスアンゼルスである。そこでこのシンボルを作る思想として、アメリカを強く印象づけること。(中略)。私は少しも迷わず星条旗を選んだ。星条旗の赤と青と白と星がアメリカだと思ったからである。


見事なまでに「ロスアンゼルスオリンピック(1984)」のエンブレムを説明するものになるではないか。亀倉雄策氏のあの「東京オリンピック(1964)」のエンブレムは、冷戦時代の「ロサンゼルスオリンピック(1984)」のエンブレムに正しく受け継がれている。そう仮定して見てみると、「ロサンゼルスオリンピック(1984)」のエンブレムは、二つ(一つは白紙撤回)の「東京オリンピック」のエンブレムの鏡像である事が判る。

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1940年に開催予定だった「東京オリンピック」のエンブレムはこういうものだったらしい。



五輪に富士山である。「日本」らしいと思う者がいるかもしれないし、当時も当然そう思われていただろう。但し当時の「日本」とは、「ダイバーシティ」を「インクルーシブ」なものとはしないこういうものだったのである。



参照:下道基行 “Torii"


富士山を描く前に、「日本」に於ける富士山以外の地への想像力しなければならない。桜の花(染井吉野)を描く前に、「日本」に於ける桜の花(染井吉野)以外の地を想像しなければならない。鳥居を描く前に、「日本」に於ける鳥居以外の地を想像しなければならない。そうしたものの持つ「らしさ」が、暴力的に働いてしまうケースがあり得る事への想像力。だからこそ多くの国のオリンピック大会のエンブレムデザインは、「らしさ」に陥らない様に「ユニバーサル」を指向せざるを得ないのである。

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件の “T" エンブレムは、世界中にその製品を送り出そうという企業(例えば「トヨタ」)のロゴにはそのままの形では使えない。「日の丸」(それが単に「赤い丸」以外の何ものでなかったとしても)が付いている車を、日本人以外の人間が抵抗無く買うかどうかを想像すれば良い。「トヨタ」の多くのアメリカ工場には「日の丸」は上がっていない。TSUTAYA の “T" ロゴに「日の丸」はどうだろうか。結局あのエンブレムは、東京都のシンボルマークや都章にのみフィットするデザインなのだろう。


エンブレムから「日の丸」や「富士山」や「桜の花」や「舞扇」や “T" の要素を取り去ったその時、「ダイバーシティ」を「インクルーシブ」に受け入れてくれそうな(問答無用で「出て行け」とは言われなさそうな)、「同質」である事を強要されない市民社会なのだというイメージを持たれるかもしれない。その「ダイバーシティ」には、恐らく「難民」といった人達も含まれるだろう。


「日の丸」や「富士山」や「桜の花」や「舞扇」や “T" が「日本」や「東京」の世俗的なシンボルであったとして、エンブレムはそれをシンボルとしてしまう世俗の囚われを表すものである。オリンピックのエンブレムは、その開催国の国民(世俗)が「国」や「市民」というものをどう捉えているのかを、如実に表してしまう恐ろしいものなのである。

ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours

国立国際美術館B2階のエスカレーター周辺は、実は結構好きな場所だったりする。インフォメーションやミュージアムショップやレストラン等のあるB1階とB2階を繋ぐ上下線のエスカレーターの脇(そこの丸柱に所在なげな「須田悦弘」がある)、B2階展示室とB3階展示室を繋ぐ上下線のエスカレーターの脇、そして奥のトイレ沿いの壁面。そこにキュービックな椅子が並んでいて、ここを訪れた際にはいつもそれに座っている。


国立国際美術館のフロアマップを見ると、そこは「展示室」という事になっていて、その壁面や床面に作品が展示される事もある。今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展でも、そこは確かに「展示室」だった。壁面上には「ヴォルフガング・ティルマンス」が「ヴォルフガング・ティルマンス」的にインストールされている。床面上には資料展示の台が設置されている。


上述フロアマップのページに掲載されているB2階の写真は原状という事なのだろう。あの椅子はまだ無い。ネット上にある同フロアを撮影した画像を雑略に検証すると、それが登場したのは21世紀ゼロ年代の後半だった様だ。ここに椅子が設置されるに至った経緯は判らないし判る必要も無い。重要なのはそこに座って休める=「展示室」内で座って休むという欲望を観客に喚起させたという事であり、また明らかにその設置によってこの「展示室」の空間的な性格が変質したという事だ。


今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の場合、全会場に設置された椅子は、映像の2作品と他に “Freischwimmer" “Sendeschluss" “Weed"(例)が掛けられている部屋にそれぞれ木製の低い長椅子が3つ(以上を以後「A群」とする)、そして件のエスカレーター周辺の椅子(以後「B群」とする)である。


A群とB群の椅子の性格は異なる。それを簡単に言えば、そこに座って正面に見える「ヴォルフガング・ティルマンス」に目を遣る事無く、スマートフォンを取り出して LINE や TwitterFacebook に興じていても、そこで小説の文庫本を読んでいたり、矢庭に PC を取り出して業務メールを送ったり、世間話や名刺交換をしていたりしても、相対的に咎められなさそうな椅子がB群である一方で、A群の椅子では中々そうは行かないだろう。A群の椅子では、否応無く作品と一対一で向き合わされる。映像作品は言うまでも無いが、例えば “Freischwimmer(フライシュヴィマー:自由な泳ぎ手・自由に生きる人/初めてのスイミング・テスト)" の前の椅子に座る観客の視線は、それ程には “Freischwimmer" たり得ない。


一方のB群の椅子は、外光の通り道であるヴォイドを通して「美術館の外」を背にする事で、「展示室」の中にありながら「美術館の外」を「展示室」の中に呼び込んでいる(その意味でB3階には「美術館の外」が届き難い)。その椅子の設置の結果、元々どちら付かずだったシーザー・ペリによるこの「展示室」は、よりストリート(プロムナード=序章)的な性格を強くした。この「展示室」の壁面は半ばストリートに面したショーウィンドウ的なものだ――従って旧来的な美術館展示を難しくさせる。B群の椅子はそのストリートのベンチなのである。そこではロングシートの電車の座席で行われている様な事がそのまま行われている。


ストリートのベンチから見る「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展。そこから「写真作品」を見にやって来た観客を「通行人」として暫く観察していた。電車のシートに座り、向かい側の窓の外を見る様に。作品を見る人の背中を見る。全く酷い(ひどい/むごい)ベンチだ。


1, 2 … 終わり。1, 2, 3 … 終わり。1 … 終わり。1, 2, 3, 4 … 終わり。階下のB3階で同時開催されている「他人の時間」展に出品された某作品ではないが、この「展示室」の「ヴォルフガング・ティルマンス」の前に観客が立ち、それを見ている時間を脳内でカウントしていた。一つ一つの「ヴォルフガング・ティルマンス」に15秒以上掛ける者(国籍問わず)は恐ろしく少ないというのがその観察結果だった。20分間B群の椅子に座って観察したところ、30秒以上その「展示室」の「ヴォルフガング・ティルマンス」に掛けている観客はゼロであり、大抵は5秒以内で作品の前を立ち去っている。その「5秒ルール」を見て「実にティルマンスだ」と感じた。


同展に行かれた方(現代美術に極めて通じていると自認される方も含む)は、同展の具体的な作品(「被写体」の意味に「反応」してしまった作品や、“Freischwimmer" や “Sendesbluss(放映終了)" といった「非具象」な作品や、“Truth Study Center(真実研究所)" の様な思わず読まさせられてしまった作品以外)を思い浮かべ、脳内で正確な秒針を刻みながら、自分自身がどうであったかを反芻して頂ければ幸甚である。15秒や30秒というテレビコマーシャルの時間が、多くの「ヴォルフガング・ティルマンス」の前では如何に長いものであるかを感じられる筈だ。


同展の世評は高いのだろう。カルチャー誌やファッション誌の紹介記事、SNS等を含むそれら「上」から「下」までの世評の平均値を取れば、それは「カッコイイ」や「オシャレ」や「軽やか」などという事になるのであろうか。B1階からエスカレーターで降りて来た観客の多くは、そうした世評によって膨らまされた「さぞかし(must)」(さぞかし〜であるに違いない)で頭を一杯にしているのだろうか。そして常日頃の美術館に対して臨む「さぞかし」のスタンスで、大阪府大阪市北区中之島 4-2-55 B2ストリートのショーウィンドウの「ヴォルフガング・ティルマンス」を見る。


美術館やギャラリーというのは観客の「さぞかし」を裏切らないところだと思われている。「さぞかし」という期待に対するゲインは「おみごと」だったりする。そうした「さぞかし」と「おみごと」の共犯関係は、ヴォルフガング・ティルマンス本人(以下機能名としての「ヴォルフガング・ティルマンス」と区別する理由から 以下 “WT" とする)の言葉を借りれば「想定内のルーティン(foreseeable routine)」という事になるのかもしれない。


ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の多くの観客は、自らの持つ「さぞかし」という「想定(fore/see=前もって/見る)」が次々と裏切られる事に直面させられる。時に腕を組んだりして「ジッと見よう」と臨んでいた視線が、「ヴォルフガング・ティルマンス」を前にした瞬間に「キョロキョロ見る」に変質させられて行く。元々「おみごと」なものとして作られているものを「ジッと見る」事は容易だ。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」を「ジッと見る」にはどうすれば良いのだろう。答えを見い出せなかった観客は、作品を「ジッと見る」事を諦め、複雑で曖昧な表情と共にその前を立ち去る。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」は、「『さぞかし/おみごと』への裏切り」によってドライブする。「5秒ルール」こそは「ヴォルフガング・ティルマンス」が設定している時間だろう。


1枚の写真の中に、あるいはシリーズの中に、さまざまなものが混在するのを許すことです。これに耐えることが重要です。「耐える」というのは、完全に受動的に受け入れることを意味しています。ややもすればニヒリズムに陥る危険性もありますが、多種多様なものに関心を持ちながら、投げやりになることなく、凡庸にもならず、斜に構えることなくいること。これこそが自分が挑むべき挑戦です。


イデオロギーの善悪をふりかざし、間違ったものに対して戦いを挑むことは、実はとても簡単なことで、物事の複雑さをそのまま受け入れ、耐えることの方がはるかに難しいものです。芸術言語のレトリックとしても、それは大きな困難をともなうものです。


http://wired.jp/special/2015/tillmans/


ヴォルフガング・ティルマンス」は「さぞかし」の空間=「植物園」に寄生する。見るべきプラントが並ぶ「植物園」に、「さまざまなものが混在する」意図的にノイジーな山出し風にされたウィード(雑草/大麻)が運び込まれ、極めて良い具合の乱雑さで適度に繁茂したりする。「インサイダー・アート/アウトサイダー・アート」の如き「インサイダー・プラント/アウトサイダー・プラント」としての「雑草アウトサイダー・プラント」。「植物園」に「雑草」を持ち込む事。「植物園」で催されるパーティの席では、それが「カッコイイ」「オシャレ」「軽やか」と話題になりもする。


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8月某日。国立国際美術館に向かう為に、阪急梅田駅から四つ橋線西梅田駅に乗り換える。梅田地下の500メートルを歩いていると、列柱は「バズドラ嵐 Future Gaming」の写真で覆われていた。



http://matome.naver.jp/odai/2143916058721536801?page=3


34歳から32歳(2015年9月3日現在)までの5人の「男子」で構成される、ギネスブックに "the most #1 acts produced by an individual" として登録されている “boy band" プロデューサー、ジャニー喜多川氏の事務所所属のアイドルグループ。


梅田の地下通路を歩く老若男女の「通行人」の大半は、その写真の列を時限的な「環境」として遣り過ごして行くものの、その一方でその写真に写されている "boy" に対して限り無く魅了され、その前で長く佇む人も少なからず存在する。「バズドラ嵐 Future Gaming」の列柱の前に相対的に長い時間佇む――様々な性的指向=sexual orientation や性的嗜好=sexual preference を持つだろう――人達の、その写真に対する反応をネット上で追ってみれば、そこには拡大された「若くて綺麗な男性」の腕や手、或いは他の "organ" に対して、フェティッシュに魅了される人の存在の例も直ちに確認出来る。



http://ameblo.jp/ninoccori-paradox/entry-12060696273.html


それにしてもこの梅田の地下通路には、出版物等の中の極めて小さな写真、或いは道行く人のモバイル端末内やそれに繋がるサーバ上のものを含め、果たしてどれだけの枚数の写真が存在するのだろうか。何万枚だろうか、何十万枚だろうか、何百万枚だろうか、何千万枚だろうか。



(C) Google



梅田の地下街を棲家とする、或いは通りすがりの写真には、撮影を生業としている者によるものもあれば、そうでない者によるものもある。その上「撮影を生業としている者」と言っても、そこには所謂「写真作家」と呼ばれる者から、スーパーの新聞広告チラシの商品写真を一日何百枚も撮影する様な「写真技術者」までいる。


折り重なりもしているその写真のほぼ全ては、たまたま隣り合い重なり合ってしまったものばかりだ。この地下街に於ける写真の入れ子状の隣り合い/重なり合いの「たまたま」は、例えば「優美な死骸(le cadavre exquis)」といったアクティビティの結果としてのものとは全く異なる。ここは意図的に構築された写真の「植物園」ではなく、持ち込まれた写真が勝手に繁茂し増殖しライフサイクルを閉じてて行く「密林」だ。


所謂写真として認識されるものとは別に、この地下通路にあるウォールナット材や大理石に見える壁や床や柱や調度までもが、全てマイクロスコープで拡大すれば網点が見えるエンボス加工された写真パネルである。



ほぼ1メートル毎に反復されるそれらの木目等のパターンは、そのあり得なさ故に「合理」を表象する機械であるカメラのみによって得られた像ではない。それらは確かに或る時点まではオプティカルに撮影されたかもしれないものである一方で、或る時点以降は光学のストレートな結果では無い。或いはそれは、何らかのアルゴリズムが生成した、カメラを全く介しない「暗室の抽象(darkroom abstraction piece:ギル・ブランク)」に於いて完結する、ウォールナットの木目に見えてしまう様な何かなのかもしれない。これらの21世紀のトロンプルイユは、写真の「密林」の苔類や蘚類なのであろうか。


この「可愛い私の猫ちゃん」から「ISによって破壊されたバルミラ神殿」、「ガラケー」から「大判カメラ」までの「私性」と「社会性」が「混在」した、様々な生態(展示の在り方)を持つ写真の「密林」に「ヴォルフガング・ティルマンス」を入れた瞬間、「ヴォルフガング・ティルマンス」は「ヴォルフガング・ティルマンス」としては跡形も無くなってしまうかもしれない。「密林」の中では、どれが「雑草」や「雑木」であり、どれがそうでないかを同定する事に意味は無い。そこでは全てが「雑草」や「雑木」である一方で、全てが「雑草」や「雑木」ではないものだ。その様な「密林」で消え去る戦略的な「雑草」としての「ヴォルフガング・ティルマンス」。しかしそうした「消え去り」こそが、恐らく「ヴォルフガング・ティルマンス」というものの持つ意味だろう。


“WT" が “my sense of duty is that I want to make new pictures(私にとっての義務感とは、新しい写真を作りたいということにほかなりません)"(ジュリアン・ペイトン=ジョーンズとハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー)と極めて凡庸そうな事を言う時、その「新しい写真」とは何を意味しているのだろうか。それは変化して止まない「写真の生態系」へのアプローチの更新を意味しているのではないか。


But then of course the world into which they insert this image can never totally conform, and is always a bit out of control because of all the different layers that people add to it. In cities things are constantly being layered upon each other in a way that is much more anarchic than what is first imagined by the city planner, or the architect of a building, or the advertising executive. This collage view on cities I find really fascinating because there is no master plan, or people always overwrite the master plan. I like that messiness.


とはいえ、人々がさまざまなレイヤーを付与するので、世界はもちろん挿入されたあのイメージに同調などせず、常に少しだけ制御不能のままです。都市では物事が絶えず相互に重なり合い、ある意味、都市計画者や建物設計者、宣伝担当幹部が当初想定していたよりもそれはかなり無秩序なものになります。基本計画などなく、人々が常に上書きしていく都市のコラージュ的光景はかなり魅力的なものだと思います。その乱雑さが好きですね。


http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv_e/j2B06EFSqdmrDZp39kMu/?lang=en


鬱蒼とした「密林」を通り、「植物園」で植栽された「雑草」のジオラマを見て、再び鬱蒼とした「密林」を通る。「植物園」の中で「ヴォルフガング・ティルマンス」という「雑草」のジオラマに、例えば「イメージから直接的に重層性をもって解釈可能な意と、イメージの裏側に潜みある種の寓意性を持ちながら解される意と、これらイメージを介した二項論的存在が見られる(同展カタログ「ヴォルフガング・ティルマンスの作品における重層性」植松由佳)」を読み取ったとしても、それらの「イメージを介した二項論」というのは、「植物園」での「雑草」ジオラマを見た後に、梅田の地下街を(或いは四つ橋線肥後橋駅等に向かう道を)「ヴォルフガング・ティルマンス」によって感度を上げられた目で見れば見えて来る事かもしれない。「『ヴォルフガング・ティルマンス』を見る」というエクスペリエンスは、――殆どの現代美術作品がそうである様に――観客自らが属しているところの環境に対する感度を上げる為のプラクティスの一つなのである。


「見るべきもの」と「見るべきもの」の間に「ヴォルフガング・ティルマンス」はある。そして「ヴォルフガング・ティルマンス」を見た観客は、「見るべきもの」と「見るべきもの」の間を見る眼差しを持ち帰るのである。

おとなもこどもも考える ここはだれの場所?

狭義の「現代美術」の専門館として1995年にスタート(鈴木俊一都知事時代)した東京都現代美術館が、就学児の「夏休み」期間(7月〜9月)に「子供向け」(或いは「子供と大人向け」)の企画を初めて打ち出したのは、石原慎太郎都知事時代の2003年6月14日〜9月7日に掛けて開催された「ジブリがいっぱい スタジオジブリ立体造形物展」と言えるだろう。これは当時の同館館長が、日本テレビ会長の氏家齊一郎氏(3代目東京都現代美術館館長:2002/5/8〜2011/3/28在任)であった事から実現したと考えるに若くは無い。


初代の同館館長は、狭義の「美術」畑の嘉門安雄氏であったが、その6年後(石原慎太郎都知事時代)に石原慎太郎都知事の直接のオファーを受ける形で、「経営」畑のアサヒビール名誉会長の樋口広太郎氏が2代目館長になる。その翌年(石原慎太郎都知事時代)の同氏の病気療養による退任に伴い、やはり「経営」畑の氏家氏が「旧知」の石原慎太郎都知事の要請を受ける形で館長に就任する。同館館長の就任会見で、氏家氏は「知恵があるわけじゃないが、経営のことは少し分かる。都の財政負担を少なくし、品よくやっていきたい」と答えた。


当時の東京都現代美術館の最大の問題点の一つとされていたのが、年間入場者数20万人台に「低迷」する同館の「経営」再建であった。氏家氏のコメントはそれに応えたものである。果たして氏家齊一郎館長就任後の最初の通期年度に開催された「ジブリがいっぱい スタジオジブリ立体造型物展」(2003年)の入場者数は22万2174人だった。それは東京都現代美術館のそれまでの1年分の入場者数を、たった一つの「アニメ」の企画展が達成してしまう現実を見せ付けたのである。


それからは、嘗ての「東映アニメフェア(旧「東映まんがまつり」)」の如く、夏季休暇期に子供やその親という「購買」のマスボリュームを美術館に呼び寄せ易い、スタジオジブリによる企画(主に氏家齊一郎館長時代)が恒例化する。「日本漫画映画の全貌」(2004年)、「ハウルの動く城・大サーカス展」(2005年)、「ディズニー・アート展」(2006年)、「ジブリの絵職人 男鹿和雄展」(2007年)、「高畑・宮崎アニメの秘密がわかる。スタジオジブリ・レイアウト展」(2008年)、「メアリー・ブレア展」(2009年)、「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」(2010年)、「フレデリック・バック展」(2011年)、「館長 庵野秀明 特撮映画館 ミニチュアで見る昭和平成の技」(2012年)。それらの多くが入場者数的に同館に貢献した役割は大きい。但しフェアに言うならば、それらは必ずしも「子供向け」では無い、広義の「現代美術」に於ける資料的価値の高い企画ではあった。


「現代美術」専門館としての同館の自らの存在を問う現れと見て良いのか、ジブリ企画の最大の入場者数を誇る「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」(29万5698人。2位は2012年の「館長 庵野秀明 特撮美術館 ミニチュアで見る昭和平成の技」の29万1575人)とほぼ同時期に、狭義の「現代美術」と「子供」が交差するトポスを模索する展覧会が同館で開催される。「こどものにわ」展(2010年7月24日〜10月3日)がそれであり、同展の8万3296人という入場者数は、この2010年度に於いて2番目の数字(同年度の同じ狭義の「現代美術」の展覧会である「MOTアニュアル2011 Nearest Faraway|世界の深さのはかり方」の1万6989人の約5倍)であった。現在の東京都現代美術館は、子供の夏季休暇期にその年度の入場者数の大半を「稼ぐ」体制にある。そうした数の視点に立つ限りに於いて、それは嘗ての石原=氏家体制の――結果的にではあっても――判り易い「正しさ」を表してはいるだろう。


その後、狭義の「現代美術」系の子供の夏季休暇企画は、ジブリ企画の様に決まった形で毎年開催とは行かなかったものの、それでも「オバケとパンツとお星さま」(2013)、「ワンダフル ワールド こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展」(2014)と、今年の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」を含めてここ3年は毎年開催の形にはなっていて、それらの入場者数はその年度の「MOTアニュアル」を常に大きく上回ってはいるのである。

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東京都現代美術館で開催されている「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」に行った。大人一人だけで行った。この「夏休みのこどもたちのための展覧会/An Art Exhibition for Children(同展「展覧会概要」)」に、未就学児の自分の子供と一緒に行く事は叶わなかった。但し子供と行ける条件が満たされたとして、果たしてこの展覧会に子供を連れて行くかと問われれば、それは限りなく無いのではないかとしか答えられない。何故ならば2015年の夏に、未就学児が自らの世界との関係構築の為に接しなければならないものが、美術館の外に数限りなく存在するからだ。それは単純に、子供という(取り敢えず)限定された時間的リソースを巡る優先順位の話なのである。


敢えて言えば、「子供を美術館で美術にふれさせる」は「子供を英会話スクールで英語にふれさせる」と同じレベルにある様な気がする。「美術館で美術」と「英会話スクールで英語」。「英語を身につける」というレベルで言えば、「英会話スクールで英語」という選択は決して悪いものではない。但し「英語でものを考える」までを射程に入れれば、英語で喋る雑多な人間が集まる環境の中に子供を放り込んでおくのに若くはない。勿論そうした環境に多くは「恵まれていない」日本だからこそ、「英語を身につける」為の乳幼児からビジネスマンまでの「英会話スクール」ビジネスというものが十分に成立するのである。


point1 絵本の読み聞かせを中心にレッスンを構成しています。先生とのQ&Aを繰り返しながら、絵本の世界に親しみます。


point2 英語圏の遊びや、欧米で長年親しまれている歌や踊りなどを取り入れています。様々なアクティビティを通して、異文化にふれます。


point3 アルファベットについて学びます。パズルを使って立体的に捉えることで、文字を形として認識します。


ECC KIDS
http://www.kids.ecc.jp/course/infant_thr.html



「様々なアクティビティを通して、異文化にふれ」る事で「英語を身につける」様に、「様々なアクティビティを通して、異文化にふれ」る事で「美術を身につける」。「身につく英語」と「身につく美術」。しかし「身につく英語」と「英語でものを考える」の間に大いなるレベル差がある様に、「身につく美術」と「美術でものを考える」の間にも大いなるレベル差が存在する。勿論そうした「美術」の「ネイティブスピーカー」(「美術」を生業にしているからと言って、必ずしもそれがそのまま「美術でものを考える」という事にはならない)ばかりが集まる「美術でものを考える」環境にも多くの者は「恵まれていない」からこそ、「身につく美術」の為の「美術館」という「スクール」が成立する。


(...) en tout cas d'une manière définitive et impérative à partir de la fin du XVIIe siècle, un changement considérable est intervenu dans l'état de mœurs que je viens d'analyser. On peut le saisir à partir de deux approches distinctes. L'école s'est substituée à l'apprentissage comme moyen d'éducation. ela veut dire que l'enfant a cessé d'être mélangé aux adultes et d'apprendre la vie directement à leur contact. Malgré beaucoup de réticences et de retards, il a été séparé des adultes, et maintenu à l'écart dans une manière de quarantaine, avant d'être lâché dans le monde. Cette quarantaine, c'est l'école, le collège. Commence alors un long processus d'enfermement des enfants (comme des fous, des pauvres et des prostituées) qui ne cessera plus de s'étendre jusqu'à nos jours et qu'on appelle la scolarisation.
Cette mise à part — et à la raison — des enfants doit être interprétée comme l'une des faces de la grande moralisation des hommes par les réformateurs catholiques ou protestants, d'Église, de robe ou d'État. Mais elle n'aurait pas été possible dans les faits sans la complicité sentimentale des familles, et c'est la seconde approche du phénomène que je voudrais souligner. La famille est devenue un lieu d'affection nécessaire entre les époux et entre parents et enfants, ce qu'elle n'était pas auparavant. Cette affection s'exprime surtout par la chance désormais reconnue à l'éducation.


(略)いずれにせよ十七世紀末葉以来から最終的かつ決定的な仕方でそうなるのであるが、私が分析した習俗の状態において、かなり重大な変化が生じた。二つの異なったアプローチからその変化をとらえることができよう。教育の手段として、学校が徒弟制度にとって代った。つまり、子供は大人たちのなかにまざり、大人と接触するうちで直接人生について学ぶことをやめたのである。多くの看過や遅滞にもかかわらず、子供は大人たちから分離されていき、世間に放り出されるに先立って一種の隔離状態のもとにひきはなされた。この隔離状態とは学校であり、学院である。こうして開始された子供たちを閉じ込める長期にわたり存続していく過程(ちょうど、狂人、貧民、売春婦たちの「閉じこめの過程」のような)は、今日まで停止することなく拡大をつづけ、人はそれを「学校化」とよんでいる。
 このように子供たちを隔離することは、カトリックプロテスタントの改革者たち、教会、法曹界、為政者のうちの改革者たちにより推進されていった大がかりな人間の道徳化のひとつの側面として説明されねばならない。けれどもこの隔離は、家庭内での意識の変化をともなっていないなら、現実のうちで可能であったはずはないであろう。この意識・感情の変化が、私が強調したく思っている現象への第二のアプローチなのである。家庭は夫婦のあいだ、親子のあいだに必要な感情の場となったのであるが、以前には家庭はそのようではなかった。この感情はそれ以後に教育において認められ、そこで表現されるのである。(杉山 光信・杉山 恵美子訳)


Philippe Ariès “L’enfant et la vie familiale sous l’Ancien Régime" : “Préface"
フィリップ・アリエス〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活」:「序文」


「閉じこめの過程(processus d'enfermement)」とは、1656年4月27日にルイ14世勅令により、「一般施療院(Hôpital Général)」として総合化される事になる「慈善」の精神による「救済」施設を言う。「狂人、貧民、売春婦たち」は、未だ魂が救われていない “sauver leurs âmes(自分の魂を救う)" べき、道徳的な価値付与の対象と見做される事で、社会にとって無関心/無関係の対象から外される。その結果、「自分の魂を救う」べき存在とされたそれら「狂人、貧民、売春婦たち」が、共同体外への「追放」ではなく、共同体内に於ける「監禁」(Grand Enfermement:大いなる閉じ込め)の対象として「一般施療院」行きとなる事で、「王権(pouvoir royal)」とその「臣民(sujets)」の国からそれらの人間が目の前から一掃されつつ、社会の中に隔離――下位的なものとしてインクルード――される形になる。即ちここでの「社会的救済」は「社会的抑圧」を意味するのである。


ビセートル病院/ビセートル救済院(L'hôpital de Bicêtre)


本展と同時期に東京国立近代美術館で行われている「No Museum, No Life?―これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会」は「事典」をシミュレートした展覧会だが、その中で美術館に於ける「Education 教育」の項目はこの様に説明されている。


美術館と呼ばれる制度は、西洋近代の「啓蒙」の思想とともに誕生した。それは近代的な学校制度が整備され、「規律=訓練」としての教育(ミシェル・フーコー)をつうじた人間の主体形成が目指されるようになった時期とも重なっていた。そんな近代以後の美術館において「教育」は、その活動/機能の中核のひとつである。(以下略)



市民の価値観を変える事で「自発的」な形を伴ってその行動様式を変えさせる、即ち被抑圧者をして抑圧者の目的に「自発的服従(subjectivation/assujettissement)」させる「知/権力(savoir/pouvoir)」の諸形式(その最も古典的なものの一つが “panopticon(パノプティコン)" である)を分析したミシェル・フーコーの “Naissance de la prison, Surveiller et punir(監獄の誕生―監視と処罰)" の “discipline(規律=訓練)" という在り方を、公立美術館自身が自らの「教育(=「閉じこめの過程」)」機関としての説明に援用するという事態は、美術館自らがその様な「知/権力」の側に位置しているという、紛れも無い現実に対する誠実な告白と言えるだろう。


従って「美術館」に於ける「子供向け」の展覧会は、多重に「権力」的なものになる可能性を常に孕む。「美術館」そのものが紛れも無く「権力」であり、その中に於ける「子供向け」の展覧会は、往々にして「〈子供〉の誕生」以降に於ける、規律=訓練の装置としての「学校」という「権力」の在り方をトレースしてしまう。そして「美術」とその展示装置である「美術館」に対し、子供の関心が「自発的」に向く様に様々な工夫がされる。更には、しばしばそこには「子供向け(子供に親しみ易い)」という「権力」のかたちが覆い被さる事になるだろう。


La famille et l'école ont ensemble retiré l'enfant de la société des adultes. L'école a enfermé une enfance autrefois libre dans un régime disciplinaire de plus en plus strict, qui aboutit aux XVIIIe et XIXe siècles à la claustration totale de l'internat. La sollicitude de la famille, de l'Église, des moralistes et des administrateurs a privé l'enfant de la liberté dont il jouissait parmi les adultes. [...] Celui-ci a apparu au XVIIIe siècle au moment où la famille achevait de se réorganiser autour de l'enfant, et dressait entre elle et la société le mur de la vie privée.


家庭と学校とは一緒になって、大人たちの世界から子供を引きあげさせた。かつては自由放縦であった学校は、子供たちをしだいに厳格になっていく規律の体制のうちに閉じこめ、この傾向は十八世紀・十九世紀には寄宿生として完全に幽閉してしまうに至る。家族、教会、モラリスト、それに行政者たちの要請は、かつては大人たちのあいだで子供が享受していた自由を、子供から奪ってしまった。(略)この現象は、家族が子供を中心に再編成され、家族と社会とのあいだに私生活の壁が形成されるのが完了したまさにその時期に、出現したのである。


同書「結論(Conclusion)」


おとなもこどもも考える ここはだれの場所?


美術館へようこそ。このまっしろな空間は、わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所にだってなることができます。南の島の海岸。家族の居間。こどもたちの王国。わたしたちの住むまち――。今年の夏休みのこどもたちのための展覧会は、4組の作家たちが、美術館の展示室のなかに、「ここではない」場所への入口を作ります。それらは、言うなれば「社会」と「わたし」の交差点。そこに立って「ここはだれの場所?」と問いかけてみてください。答えを探すうちに、たとえば地球環境や教育、自由についてなど、わたしたちがこれからを生きるために考えるべき問題が、おのずと浮かび上がってくるはずです。
学校に行かなくていい日。美術館で、こどもたちと一緒に、私たちの場所をもう一度探してみませんか?


「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展覧会概要
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/whoseplaceisithis.html


「学校に行かなくていい日」に、「美術館」という「学校」の中にある「展覧会」という「学校」に行こうという内容にも読める文章だ。そもそも「学校」の「夏休み」というのは、「主体(sujet)」になる為の公的な 規律=訓練から束の間開放される時間だった。我々の大人の社会は、「夏休み」の期間中に子供が「学校」の外で(相対的に)自由に行動する権利を許す。「夏休み」期間(子供に許された他の休日含む)以外の日中に子供が市中の「大人の場所」に混じっていれば、場合によっては警察(所謂「公権力」)や地域社会の「保護」対象ともなる。それは「学校」からの「脱走」と見做され、発見された子供は「学校」に送り返される。子供に許された休日(学校に行かなくていい日)以外の日中に於いては、大人と子供は別々の世界に分離されなくてはならない。そして「学校」もまた「『ここではない』場所への入口」であり「『社会』と『わたし』の交差点」なのである。「学校」。そこはだれの場所? その「交差点」にいる「わたし」。それはだれ?


「このまっしろな空間は、わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所にだってなることができます」と展覧会は言う。しかし子供にとって「想像の助けがあれば、どんな場所にだってなる」のは「このまっしろな空間」に限った話では無いし、またこの展覧会に於いて「まっしろな空間」というアーキテクチャのみが子供の目の前に与えられている訳では無い。それは既に「地面(アーキテクチャ)」とプリペアーされた「遊具(コンテンツ)」がセットになっている「児童公園」の形で現れている。果たして「わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所(コンテンツ)にだってなることができます」の「わたしたち」とは誰を指しているのだろうか。


美術館がまだ完全な形で「まっしろな空間」化されていなかった頃、一方では主権(ソヴリンティ:sovereignty)的な「美/魂」という超越的他者性を伴って、美術館は権力的な装置であり続けていたが、その一方で美術館には「想像の助けがあれば、どんな場所にだってなること」が可能な、「美術」のコンテンツとコンテンツの間に開いた裂け目が存在していた。


"At the San Francisco Museum of Art. an abstract gets close scrutiny."


小林秀雄的なレトリックを――洗練度に於いてかなり欠けるものの――使えば、「通気口に関心が向かう子供がいる、子供向けの通気口というものはない」という事になるだろうか。


しかしこうした裂け目は、モダンな美術館からは一掃されてしまう。「まっしろな空間」。それは通気口の様な「美術」の外部に通じる裂け目を塞ぐ――監視員という裂け目を塞ぐ技術は未だに確立されていない――事で、観客をして「美術」のコンテンツに「自発的」に注意を払う様に仕向ける規律=訓練の装置なのである。美術館の観客は常に、余所見をする事無く作品にのみ注視する様に「まっしろな空間」から「監視」されている。そして観客は、その様にして内面化された他律を自律であると錯覚させられ、通気口とは異なるそこにあるもの=作品を、期待や落胆といった評価の対象とするのである。


「学校」が入れ子状になっているとも言える本展のキーマンは、会田家の会田寅次郎氏(「中学2年生」)ではないかという印象を持った。彼はフィリップ・アリエスのタームで言えば「若い大人(homme jeune ≠ jeunesse)」である。


http://www.slideshare.net/kawarusosu/the-esperanto-generator


L'enfant était donc différent de l'homme, mais seulement par la taille et de par la force alors que les autres caractères restaient semblables.


子供は大人とは異なったものであるが、それは背丈や体力によって異なるというだけであって、その他の性格においては類似なものであり続けるのであった。


同書「序文(Préface)」


削除依頼(=撤去要請!)が出ている Wikipedia 日本語版の会田寅次郎氏作品「TANTATATAN」(Chim↑Pomの卯城竜太氏執筆)には、会田寅次郎氏は「小学校の一般クラスにも馴染めず」とある。それはまた 「小学校の一般クラスという規律=訓練の装置にも馴染めず」と読み直す事が可能かもしれない。確かに「小学校の一般クラス」が念頭に置く成長計画とこの人物の成長曲線は、反りが合わなそうな印象はある。


7月に一般的な話題にもなっていた会田家「檄文」(新作)を始めとして、会田家の展示物には「学校」(若しくは「教育」、或いは「規律=訓練」)をテーマにしたものが多い。それらの多くは「子供向け」の本展の為に作られたものではなく旧作である。同じく同時期に一般的な話題になっていた作品「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」(会田誠氏 2014年:同年の会田寅次郎氏の「esperanto generator」と対を成す印象もある)は、規律=訓練によって幼稚園児にリセットさせられた「一国の頂点に上り詰めた」男のビデオとも言えるだろう。


何かを教えようとする「美術館」という「学校」の中の、「展覧会」という「学校」の中で、会田家の作品はそうした「学校」の諸々を直接的にも間接的にも「おちょくる」。その「美術館」という「学校」に於いても、「教師」が「生徒」に「指導」をするという非対称的な機制があるとして、その「生徒」の位置にあるのは通常「観客」だと思われていたところがある。しかし今回の展覧会では、作家もまた「生徒」として扱われ、「教師」から「指導」される事が広く明らかになった。


多くはこの「指導」に狭義の「政治」を巡る構図を読み取ったかもしれない。しかしどうやらそれは、「徒手体操で手の先がピンと伸びていないのが見苦しい」的な「美的」レベルの話だった様な印象がある。今回の「教師」役からは、その作家に対する自らの「指導」に関する明確なメッセージが伝わって来ないものの、しかしそれが伝えられる事は永遠に無いだろうとも思える。何故ならば「徒手体操で手の先がピンと伸びていないのが見苦しい」についての合理的な説明を試みようとしても、結局は「教師」の個人的な「美的趣味」に基づいている「見苦しさ」の根拠については、自家撞着の形でしか書けないだろうからだ。「私が見苦しいと思うから見苦しい」。それでは「詳細な理由や経緯」を記した公的な文書にはなり得ない。


現実の「学校」に於いて、こうした「教師」の個人的な「美的趣味」(その多くは「社会常識」を装う)によって、自家撞着的な「指導」が進められていく事は決して珍しい話では無い。事更に「良い子」では無かった子供時代を過ごしてきた者ならば、そうした「教師」(往々にして世間的には「良い先生」という評価がされていたりする)の一人や二人を、「そう言えばいたなぁ、こんな人物」と具体的に思い出す事が出来るかもしれない。所謂「青春ドラマ」では、こうしたキャラクターを「教頭」の様な形でどこかに配置するものである。

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Ōkina otomodachi
おおきな おともだち


Ōkina otomodachi (大きなお友達?) is a Japanese phrase that literally means “a big friend” or “an adult friend”. Japanese otaku use it to describe themselves as adult fans of an anime, a manga, or a TV show that is originally aimed at children. Note that a parent who watches such a show with his or her children is not considered as an ōkina otomodachi. An ōkina otomodachi is not a parent who buys anime DVDs for his or her children to watch. Ōkina otomodachi are those who buy children’s anime for themselves. Also, if the work is obviously aimed at adults, a fan of it is not an ōkina otomodachi. Hence ōkina otomodachi and otaku are different concepts.


大きなお友達(Ōkina otomodachi)は、字義的に言えば「大柄な友人(a big friend)」や「大人の友人(an adult friend)」を意味する日本語に於ける言い回しである。日本のオタクが、幼児向けのアニメ、マンガ、テレビ番組の大人のファンとしての自分達の存在を言い表す場合にこの言葉が用いられる。但し注意すべきは、自分の子供と共に、それを親として試聴する場合には、大きなお友達にはならないという事である。大きなお友達は――親としてではなく――幼児が視る為に作られたアニメの DVD を、自分自身の為に購入する人々である。また、仮にその作品が大人をターゲットとしているのであれば、そのファンは、大きなお友達ではない。従って、大きなお友達とオタクは、異なる概念である。


https://en.wikipedia.org/wiki/%C5%8Ckina_otomodachi

大きなお友達一人でこの「おとなもこどもも考える」展覧会に行くのは、やはりバツの悪いものではある。「おとなもこどもも考える」は、「おとなは考える/こどもは考える」そのままではないだろう。「おとなは考える/こどもは考える」のスラッシュの位置にあるのは、両者間の「対話」であるに違いない。


例えばこの展覧会に入場すると真っ先にこういうキャラクターが出迎えてくれる。



「さくひんにさわったり、はしったりしないでね〜」。ひらがなが読める/ひらがなをしか読めない子供がこのコーションを読める様にとのひらがな書きの採用に違いない。ここでひらがなを覚えたばかりの子供は、連き添いの大人に質問するかもしれない。「『さくひん』ってなに?」。「どうしてさわっちゃいけないの?」。「なんではしっちゃだめなの?」。ここからの子供との遣り取りが真に「対話」になるかどうかで、問いを投げ掛けられている大人の知が試されるだろう。


往々にして大人は「さくひん」について子供よりは知っていると思っている。そこで大人は聞き齧りの「さくひん」についての知識を交えた説明を、子供の「『さくひん』ってなに?」という質問に対して行うかもしれない。しかし全く同じ質問を、自分よりも智者に見える大人からされた時、その人物は子供と同じ内容の「さくひん」についての説明を行うだろうか。或いは智者ではないかもしれないし、ラディカルにそれについて考えているかどうか判らない者であっても、明らかに「美術」に関係する事で報酬を得ている様な者に対して、子供に対するのと同じ様に答えるだろうか。


子供は質問する。それは子供自身が、自分が「知らない者」である事を知っているからだ。一方で、大人は子供程には他者に対して質問をしない。「美術館」で「作品って何?」と問う大人はそれ程多くない。大人は「作品」とされるものに対して、自らを「知らない者」とは認めない。「子供向け」の表現や、「美術館」に展示するに相応しいものがどの様なものかを知っていると思って自身を疑わない=「知らない事を知らない」のが大人である。しかし「知らない事を知らない」者に対しての「対話」は困難なものになるだろう。何故ならば「対話」は「私が知る全ては私が何も知らない事である(“All I know is that I know nothing.”:ソクラテス)」と自らを認ずる事の出来る者同士で行われるものだからだ。従って規律=訓練の「学校」と、懐疑の方法論である「対話」もまた反りが悪いのである。


自分が「知らない者」である事を知っている子供でも、時々自分が「知らない者」と認めない時がある。「青は男の色で、ピンクは女の色」「男はズボンで、女はスカート」。それは恐らくトイレのカラーコーディネートやピクトグラム(「ユニバーサルデザイン」)が子供にもたらした規律=訓練の成果なのだろうが――東京都現代美術館のマイケル・リン× BISAZZA によるトイレの壁面からして「青は男の色で、ピンクは女の色」であり、入口のピクトグラムも「男はズボンで、女はスカート」という「常識」を逸脱していないところが、規律=訓練の場である「美術館」に相応しいと言えば相応しいと言えなくも無い。そして半可通な大人は、この手の「常識」の順列組み合わせ的な「新しさ」に感激したりするのである――、自分が「知らない者」である事を心得ている大人なら、ここからも子供との「対話」を築き上げて行く事が可能だろう。


大きなお友達一人で同展に行くのと、質問する事を止めない=懐疑する事を止めない子供(或いは質問する事を止めない=懐疑する事を止めない大人と一緒でも良い)と行くのとでは、その疲労度が全く異なるものになるに違いない。同展を「託児」の場所と割り切ってしまうのなら兎も角、それらの質問から「対話」を築きあげていこうとする事を少しでも試みようとするのであれば、一冊の本を書き上げる位の知的疲労を覚悟しなくてはならないかもしれない。それは近代的な「休日」の概念とは全く相容れないだろうが――しかし多かれ少なかれ、子供のいる家庭の「休日」とはそういうものである――、それ程に同展(中でも「託児」になりようの無い「会田家」)は子供の「なぜ」を触発し、「対話」を築く事の出来るスポットが満載なのである。それは「美術館」が時に「学校」の様に現れるものでもあるからだろう。

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ヨーガン レールに、子供は自らの「工作(ブリコラージュ)」や「宝物(収集/発見)」との近さと(圧倒的な)遠さを見るだろうか。


はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策)の「こどもにしか入ることのできない美術館」の前(大きなお友達は奥には入れない)では、4人の12歳が何かを探しに行くこれを思い出していた。



「死体」を発見するまでのトポスもまた、子供だけの場所だった。


アルフレド&イザベル・アキリザン。棚の上に乗った様々な尺度を持つ「私の場所」。それが空間的に集合すると、高さが100メートル位あったものも、面積が1平方キロ位あったものも、全てがモジュール住宅化される。

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東京都現代美術館を出た木場公園では、大人と子供が集まってバーベキュー大会をやっていた。大人は子供に、子供は大人にべったりと付き纏う訳でも無く、良い感じでほったらかされていたのが極めて印象的であった。